民謡・猥歌の民俗学  赤松 啓介 

民謡・猥歌の民俗学  赤松 啓介 明石書店 

<内容>
      第Ⅰ部 近世の民衆と抵抗の唄
     一 近世民謡源流考
     二 失われた青春への回想第
Ⅱ部 民謡・猥歌の民俗学民謡
第Ⅲ部 猥歌の風土記 [初出: 『民謡風土記』 1960 神戸新聞社のじぎ文庫]   
   
〇赤松氏の名前をつながりの中で知ったのは、1981-12「解放教育臨時増刊号」であった。田中武、上村充之、南曜子、森山沾一、野口良子、野本三吉、高瀬泰司、上野英信谷川健一宮本常一高取正男同志社大編「遍路」が掲載され、編集・解題は福地幸造であった。

 

昭和のはじめころ,赤松啓介がフィールドワークの場とした兵庫県の農村部での体験の一コマが本書に織り込まれている。むき出しの性への笑いを核にしながら,男と女のさまざまな局面に即した恋唄がふっくらとその外層をなして民俗の唄は形成された。民俗の唄にはもちろん仕事唄や,古い神事から変成したものの多いわらべ唄等が別の系列をなしているのだが,それらとても生命力の源泉を性のメタファーに負ってきたことには変わりない。若者宿,夜這い,歌合戦といった習俗が,そうした民俗の歌の基底を支えてきた。
 

〇追悼「赤松啓介氏の残したもの」より   ◆森栗茂一 


      赤松氏は社会主義運動として、自転車をこいで播洲の底辺の農村を訪れ、非常民・被差別民衆・スラム街にわけいり、人々の昔話や噂話・生活伝承を書き留めた。自らの労働や性体験のなかで、伝承に耳を傾けた。つまり、戦前の民俗学には、二つの学派があった。一つは、旅人としての聞き書きによる常民研究から、日本文化を探る柳田派である。もう一つは、徹底したフィールドワークに基づく非常民研究から、革命を志向する赤松派である。
  全国を旅した巨人・宮本常一は、赤松の意思を受け継いでいた。宮本は被差別の民俗文化である周防猿回しを復活し、離島振興法の基礎となった離島調査会を運営した。宮本こそ、赤松派である。初めての男女の交わりでの作法「柿の木問答」を究明したのも、赤松と宮本だけである。

 

歌をはじめよう
     

朝もハヨウから弁当箱さげて
工場(こうば)通いも楽じゃない
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。
仕事はきついし
残業は多いし、
これじゃ身体がもちゃしない。
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。
工場焼け~てぇ
本社も焼け~てぇ
ついでに社長も死ねばよい。
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。
社長死んでも、オイラだけは泣かない、
泣くはオヤマのカラスだけ。
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。
カラスだって、ただじゃ鳴かない
あげた団子の食いたさに。
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。

今から30年前に立川飛行機で歌われていた労働歌と聞いた。
うらおぼえであるのは、失礼。歌の3番目から、明るくテンポの速いリズムに切り替えて歌うのがポイントで、とも聞いた

 

この唄は、どのような席で歌われたものか?唄をうたうべき場合と反逆

歌をだしなされ、餅のような歌を
私がつけます 豆の粉を(印南)
歌を出しやんせ、出しゃったらつけよに
竹の根の節、揃わねど(加西)
うたえ、うたえと、せきたてられて
唄もでませぬ、汗が出る(伊勢)

 

今の若い人には想像もできないことだと思うが、昔の唄はただ聞いているだけのものではなかった。唄をうたう形式はいろいろあったが、誰でもうたわなければならなかったので、もし唄わぬものがあると気にいらぬことでもあるのかと嫌われている。
つまり近世までの唄は、本質として共同体的性格を持っていたので、唄が集団の管理に属しているかぎり、唄をうたうべき場合に唄をうたわぬのは、集団に対する反逆であり、違反であったから、そういう抵抗が許されぬのは当然であろう

 

うたはうたいたし、唄の数知らず
野でも山でもこれひとつ(印南)
うたいますけど、まだ若鶏で
声が届かぬ、隅々へ(多加)

 

歌い手さんの自己卑下から歌合戦、音頭取りへのひやかし、「いさかい唄」「あて唄」「かえし」「唄喧嘩」。

 

心ありゃこそ、この手を握る
承知するまで離しゃせぬ
承知しました離しておくれ
わたしゃあなたの妻になる(加西)


若い男と女のラブソングと思ったら大間違いで、女同士の唄喧嘩なのである。つまり一方は恋をあさる男になった気であるし、一方はほれた男に手を握られて嬉しくなった気でいるわけだ。


〇ラブソングというものは自由恋愛が保障されるような社会でないと成立しない。「夜這い」といい「豆盗人」といい、公明な恋愛を育てるような空気が日本の近世封建社会にはなかったのである。民謡に表れた多くのと情事の唄を、当時の人たちが自分で経験した恋愛や情事を唄ったものと思うかもしれないが、実はほとんどが借り物であった。

自由に恋愛することを許されなかった若い女性たちが、お互いに本当の恋愛はこんなものではなかろうかと想像しながら、作り上げた仮像なのである。経験ある民謡研究者でも、これを本物と思っているものがあるほどだが、それらの唄が極めて類型的で、殆ど類歌や替え歌であることをみれば、おかしいことに気づくはずであった。
色のまじらぬ唄がないほどであるのに、生命を焼きつくすような強烈な相愛の唄がないのは、真の恋愛が育つ社会でなかったからである。

 近世社会後期の爆発的な発生と流行の影。機織女工、丁稚・子守り女。この唄の二大集団的管理者と彼女たちの背景にある農村社会が女性共有を強制する男性の暴力とそれを社会・風俗政策に利用した封建的権力にさらされていたことも、また彼女たちの悲劇感を育てるのに不足はなく、唄の形成に大きな影響を与えている。


赤松が「戦前は盆踊りを12時以降は禁止したとか、猥褻な唄は唄わせなかった」「だが、これにウラがあった」と言えるだけ、現場に通いつめたヒトが、この 「集団と唄の作法」を書き込んでいるのだ。
糸のほつれをほどく作業も複雑になっていく。


以下は、そのヒント。

赤松「村落共同体ろ性的規範」より
若衆いりして、力も一人前であり、仕事も一人前にできる。そのため日雇いに出ても一人前の賃銭を支払われることになった。ムラの論理には、それなりの一貫性ある。それで、結婚してともかく生活できるのを保障したのである。
そうタテマエのように進まぬことはわかるが、基本的条件は揃えてあるのだから、後は本人の努力であり、それができないようでは一人前とはいえぬ。
「一人前」とは、いまのわたしたちが考えているような安易な達成目標でも、単なる言葉の遊びでもなかった。ムラが生存する上での根本的要件なのである。