阿片試食官

阿片試食官/児島克弘

著者あとがきで「わたしは日本人ではあるが、日台いずれにもかたよらず、第三者の視点で双方の本音をぶつけようと考えていた」と述べている

 

阿片試食官より引用

大正13年の阿片会議は白熱化した。
会議の席上、英国は日本の満州における阿片密造、密売の手口をあばき攻撃する。対して賀来代表は、台湾阿片漸減策のせ成功例を系統だてて説明し、阿片追放に熱意を示す日本が、満州に阿片を密売させるはずもなく、事実に反する誹謗だと反論する。満州における阿片の実情を承知しない参加国(日英仏中印、オランダ、シャム、ポルトガル国際連盟に参加していないアメリカは不参加)は英国の主張より日本代表賀来の熱弁を首肯する。賀来は日本の台湾阿片策の成功例を、あたかも日本の全阿片政策であるかのように主張して満州の事実を隠蔽し英国の追及を巧みに交わしたので会った。

賀来は漸減策の具体的例として
1阿片隠者のみに吸食特許、他は禁止し治療を実施
2阿片煙膏の官営製造、管理、販売。
3教育による青少年に対する阿片害毒の徹底
右の三点を強調した。しかし台湾総督府は中毒者に対する除治療はほとんど実施しておらず、虚偽発言で会った。おおむね自然死による中毒者の減少を待っただけなのである。ともあれ阿片会議は、日本代表の主張がとおった形で阿片漸減策の線でまとまり、参加国は条約を締結する。

条約の骨格は、参加加盟国は、阿片の密造、密売を禁じ、阿片の使用は既往中毒者に限り認め、未成年者への売買を厳禁する。そして漸次、阿片の生産、製造、売買を減少させる。。同時に各国は阿片取扱量を明確にするために、輸入地から他への直接輸出を禁じ、阿片の通関、積み替えにも輸入国政府発行の証明書を義務付け密輸を防止することにした。条約の施行日は1926年7月と定めた。
賀来とすれば、台湾阿片漸減策の成功例解説を国際会議の大舞台で論ぜられたのは本望で会ったろう。自分が敬慕する児玉元総督、後藤元民生長官にたいするはなむけであると同時に、半生を捧げた台湾総督府に対する水からの鎮魂歌でもあった

以上は、今でも語られる神話作成の物語

13年海軍は陸戦隊を台湾とは指呼の間のに上陸させる.日本軍は占領地各地で軍票を使って食料を始めとする物資を調達するが、より効果的なのは大陸にあっては阿片煙膏である。日本唯一の阿片煙膏工場は台北にあり、台湾総督は予備海軍大将である。官制からして専売局は総督に直属している。
従来から阿片の流通で莫大な機密費を擁している陸軍の関東軍を海軍は羨望していた。海軍のその恩恵にあずかりたい。上海事変にしても名目は居留民保護であるが、裏には阿片市場の一端を得たい海軍側の願望がこめられていたと指摘する向きもある。だが、上海は海軍陸戦隊のみでは事変を解決できず、陸軍の救援によって危機を脱した。上海も海軍の自由にならず、阿片市場の橋頭堡を別途アモイに見出したともいえる。

以上、上海事変裏面史 これが、植民地での標準的観点
陸軍側から書かれたものが多いので海軍側からの視点は出色。

昭和18年専売局の酒席で。(軍政要員として徴用された若林阿片係の一時帰台の歓迎会で)
「おい、若林君、君はジャワで軍政要員として内をしている」
「タバコの製造、販売の指導です」「ウソをつけ、君は阿片一筋のはずだ。酒もタバコも門外漢のはずだ」
「弱っちゃうなあ、mぷ。極秘ですよ、極秘。実は阿片です。現地の施設で阿片を製造し、華僑にいかにして多くの阿片を吸わせるか?それが私の仕事でして」
「そうだろう。そんなことだろう。たいした軍政要員だ」
「それも国策だ」
憮然たる表情で相沢室長がたしなめる。なるほど、(台湾専売局も含めて)阿片の増産、増販は、戦争遂行上の秘められた国策でもあったのだ。


夏雄は、(書類を燃やし続ける焼却作業で)終戦時まで眼に触れなかった極秘書類やパンフレットを書類の山から拾い出し読み漁った。「南方阿片統一論」なるものがある。著者は夏雄の上司、専売局計画室長の相沢である。要旨は、台湾専売局の阿片工場の設備をフルに活用させ、南方占領地に阿片を供給すべしと献策していた。夏雄は占領地への阿片は軍の要請により一度は軍の下請け機関か別働隊に納入され、その後、占領地に戦略物資として密売、もしくは軍票代わりに使用したと想像していた。だが、このパンフレットを見る限り阿片密輸出入に相沢室長が主導的、積極的であったのは歴然としている。
「室長は自分の意思でこのパンフレットを書かれたのですか?」「バカな。総督府上層部からの要請でおれが書かされたのだ。本島人の眼にそのパンフレット をさらしてはならん。何をおいても、その「南方阿片統一論」を先に焼くんだ。下手をすると俺は戦犯に問われる。局長も総督府首脳も危ない」

 

以上、終戦直後の証拠隠滅から

 

     有隣堂」バックナンバーズ藤田昌司書評
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/386_5.html

湖島克弘氏の『阿片試食官』(徳間書店)は、日本統治下の台湾の実情を描いた注目すべき歴史小説だ。台湾の医事衛生の改善に尽力して台湾人の希望の星と仰がれた杜聰明博士に、作者の造形した虚構の人物をからませ、阿片追放の苦闘の歴史をたどる。

 炳煌のたどった人生が底辺社会だとすれば、杜聰明は日の当たる栄達のコースを順風満帆で進んだ。医学校-医学専門学校-日本内地留学-医専助教授を経て台北帝大医学部教授、勲一等勅任官に任ぜられ、台北の官立、私立、法人のほとんどの病院の院長を兼任.

(戦後、台湾専売局に炳煌は呼び出される)
「オレが誰かわかるか?」
炳煌の記憶に火花が散った。そして、驚愕した。
「あっ、洪渓山先輩」「なぜ、ここに」
渓山はアモイで中国革命党台湾支部党員として抗日運動に加わり、大戦末期にはアモイ支部ナンバー3の地位にあった。
「そのおかげで、今はお役人さまってわけだ」
「そこで相談だが、また専売局に戻ってこないか?」
「ただし、条件がある。国民党に入党することだ。日本人教官を殴って師範を中退したといえば、党は大歓迎するはずだ」
外省人の下で働くことに触れ)「ご無理ごもっともで絶対に反対するな。拝拝(パイパイ)を忘れるな、君にできるかな」
「おれはおおげさな話をしているのではない。腹がたって外省人を殴ろうものなら、退学、退職ぐらいではすまない。よくてブタ箱、下手をすればズドンであのよ行きだ。短気なおまえに耐えられるかな」

以上、実際には、本人のアイデンティティーに触れなければいけないのだ。この淡水公学校の先輩でアモイに渡った洪渓山。反日運動で国語学校時代の炳煌と相識であり、医学校を卒業して医師から、チフスで急死した台湾民衆党の蒋渭水
昭和6年の遺書は全文が掲載されている)
作者の次作を期待する所以は、この台湾民衆史にある。
朝鮮での「南部軍」「太白山脈」など、さらに「光州」での殺害と記憶の掘り起こしの民衆運動が、高まる権利意識と経済成長で支えられていく。台湾について知らなすぎるのだ。

 

アヘン政策の問題点。満州国亜片政策に関する陳述 
      古海忠之「侵略の証言」岩波書店
人類乃至民族の弱廃より、延ひては其の衰亡を齎す以外の何者にも非ざる亜片吸飲を許容、維持、または助長するは其の本質において犯罪である。然れども帝國主義的侵略においては、 亜片政策の採用は最も必要な常套手段にて、法律、制度等に依りて粉飾合理化せられ、被侵略者の衰亡を培ひて自己の目的を確保するとともに、有力な財政手段を挙ぐる副目的をさえ達し得るのである。
満州国においては1933年2月関東軍が亜片産地たる熱河省を侵攻すると同時に 、亜片政策は財政収入確保の緊急必要を理由とし早くも採用せられることになった。
*熱河侵攻の司令官は東条英機。当時よりこの侵攻はアヘン関連と言われた。
関東軍外郭会社坂田組を設立し、北京、天津に直送したのが、登戸研究所偽札作戦の上海「松機関』軍属、坂田誠盛。
                                 

    
ルフレッド・w・マッコイ「東南アジアのヘロイン政治 (邦訳書名「ヘロインー東南アジア麻薬の内幕」 ~ 山田豪一「オールド上海阿片事情」より

ルフレッド・w・マッコイ「東南アジアのヘロイン政治 (邦訳書名「ヘロインー東南アジア麻薬の内幕」の功績は、生産と流通の経路を明らかにしただけではなく、タイ、ラオスベトナム現地の聞き取りによって、阿片とヘロインの流通経路の掌握が即政治権力の獲得につながった戦後東南アジア政治史の展開を、現にベトナムと米国で進行中の事態と結びつけ、解明した点にあった。


マッコイによれば、五十年代初期、CIAがビルマ側に逃げ込んだ国民党軍の支援に乗りだし、ここで栽培された阿片がラバの背でタイのチェンマイに運ばれ、CIA提供のヘリや飛行機でバンコクに送られるのを黙認したのがことのはじまりだった。第一次インドシナ戦争でフランス情報部がラオス少数民族に栽培を強制し、サイゴンの警察軍に販売権を与え、反ベトミン勢力育成の資金にした経緯は、日中戦争中、日本軍が内蒙古で栽培させた阿片で占領地行政の経費を賄ったのに似ている。


が、フランス情報部と違ってCIAはタイやラオスで、そしてゴ・ジン・ジェム政権を作り介入したときも、その秘密活動資金を得るために麻薬取引に手を出したりはしないという。CIAが演じた役割は、副大統領のグエン・カオ・キがかれの空軍輸送機でラオスからサイゴンに運び込み、それが、かれの権力の源泉となり分け前をめぐって政権内に暗闘がたえず、さらに69年、香港から送り込まれた職人の手で、黄金の三角地帯でヘロイン製造がはじまり、これがベトナムの米軍兵士に売られ、七十年代のはじめ、在ベトナムGIの15~20%、2万五千~三万七千人がヘロイン常用者になったという軍医の報告を知りながら、CIAも南ベトナムのの米大使館も何の手も打とうとしなかったことだという。かれらは阻止すれば政府の崩壊につながることを知っていたからだ。
1967年、ボリビアに入ったチェ・ゲバラが農村からの武装闘争を呼びかけて死んだ。これに対抗し、反ゲリラのの工作員ラオスグリーンベレーが阿片運搬に便宜をはかったように、かれらも農民を味方につけるためコカ栽培をすすめ、コカインの運び出しを手伝い、やがてこれが巨大な流れになって米国に流入し、この流通を掌握したかれらのなかからパナマやハイチの軍事独裁者を生み、かれらは今やアメリカの厄介者になっている。

 

1979年、フランシス・コッポラが「地獄の黙示録」を作った。あれは、CIAの工作員がウエストポイントの最優等の卒業生、朝鮮戦争の英雄で、グリーンベレーの指揮官として来たベトナム軍の後方奥深く潜入した将校暗殺の命令を受け出発するところからはじまる。なぜかれが殺されねばならぬのか?ベトナム戦争の地獄めぐりをしメコン川をさかのぼり、めざす少数民族部落で工作員がみたのは、白っぽく肌のかわいた無表情の住民の群ーアメリカ人なら、これがヘロイン中毒者の症状とわかるーをかきわけ、マーロン・ブラント扮するカーク大佐をみつけ、カークが黙ったまま殺されたとき、その沈黙から米国民がやはりかれは殺されるべきだと断じたことがわかる。