電鉄日記 アイコン      脇田 繁明  グリーンアロー出版社

電鉄日記 

    日記体で記された終戦直後の私鉄職場 (大東急新宿支社)

1946年4月30日
「場内注意!」
とここの所は声を出すべきなんだが、オレは黙って信号機の下を走り抜けた。進路現示「2」もチラッとみてただけだった。だが前路に次々とわだかまる分岐の 開き具合は真剣に読んだ。全部正常。よし。直ぐに騒音と振動が起きて足の下の車輪は先ず渡り線の転轍器を踏み越えそして踏切。続いて一番線との分岐を踏ん で構内踏切を渡ると車体の先端はホームに差し掛かる。
オレはホームの三分の一程のところで、ゆっくり制動弁のマンズハンドルを引いた。制動管の排気音が起こり、間もなくブレーキが利きはじめる。列車の速度は 目に見えて遅くなった。
ホームの前端には海老八が立っている。青い菜っ葉服を着てフン反りかえっている。海老原八助。構内運転手。あのふとりかえった体つきは、この時世に食い物 に困ってない証拠だ。
オレは一回、続いてもう一回、そして最後は海老八の立っているちょっと手前でマンズハンドルをレリーズにして、眠るように列車を止めた。これで海老八は一 歩も余計に歩かないで運転台の窓のところにやってこられる。
「ご苦労さん」
そう言って海老八は運転台の中を覗き込んだ。オレは黙って頭を下げた。
「具合どう?」「調子いいです」マスターコントローラからレバーを抜き取り、立ち上がる。ホームでは拡声器が「毎度ご面倒様でございます。この電車は当駅 止まりでございます。どなた様もお忘れ物なきよう、お乗り換え願います」

    終戦直後の「整備不良電車」を、この運転士は操っているの だ。

さらに、悪化する一方の食糧事情。


▼すきっ腹▼
(オレは)限界をこしたスキッ腹で、成城学園ホームの発車待ちをしながら「とても立っている元気はなく折れるようにホームにう ずくまり」車掌に「時間ですよ」と声を掛けられオレは驚く。なる程、出発信号がもう青になっている。出かけなければいけない。でも出来ることなら、オレはしゃがんだままでいたかった。(6月17日)


▼シケモク拾い▼
稲田の折り返しで上りの発車待ちにはいるとオレはホームの下に降り、電車の床下を見て回った。・・人が見ているといかにも仕事熱心な乗務員のように見え る。
だがオレの目的は他にある。こんな事をやっているうちに枕木の上、道床の石のなかに必ずタバコの吸殻が見つかる・・・
オレはこうしたモク拾いはしたくなかった。だがタバコは吸いたかった。なんとしても吸いたかった・・・さも、床下点検をしているフリをして人目をゴマカし てやっている。情けない(6月19日)

 

▼トコロテン▼ この夜の夕食はオフクロから「おまえ、今日はなにもないんだよ。仕様がないからトコロテンを買っといたんだけれど。我慢してくれ」といわれ、勿論ニセモノ の正油をかけて、「細い糸のようなトコロテンは重なり合って半透明の塊に盛り上がっている。オレはその一本、一本をさも大事そうに飲み込んだ。たとえ少し でも長くかかって食う為に。情けない。」(4月30日)

 

▼ラーメン▼ 「フフ息をはずませ、舌でこねくっていると、びっくりした鼻から鼻汁がトロトロ流れ出す。テイサイも何もなかった。
このソバは本物のシナそばだった。具は何も入っていなかったが、ソバだけは本物だった。
「こりゃ本モノですね」
「そうですよ、いまどきザラには無いシロモですよ」
「やっぱり違うなあ」
勘定はSが払った。二杯で15円だった。オレにはとても手の出ない値段だ。
(12月14日:藤沢駅周辺にて)

 

 

当時の仕事感覚を伝える貴重な証言

    ▼居眠り対策の立ち運転▼
「眠っちゃった、眠っちゃった、オレは口のなか叫び、猛烈にしまった!と思った。
またオレは改めてオゾ毛をふるった・・・居眠りなんて飛んでもない。オレは腰掛けからスッと立ち上がった。今日は仕業が終わるまでもう絶対座るまい。(8 月23日)

▼片瀬線の女性運転手▼
「帽子はかぶらず、白いブラウスの袖に「運転士}の腕章をつけ、紺の制服ズボンをはき、手には歯止めをぶら下げている。あんな身なりを脱がせ、ちょっとし た洋服を着せたら一流会社の女事務員に見えるだろう」
(8月16日)

▼2・1スト▼
(詰所の貼紙に)2・1ストの防衛部署が書いてある。
貼紙の書き出しに「戦闘組織」とある。闘争ではなく戦闘だ。組織は心得を意味する。
1月31日終車後、在経堂電車は全部車庫線奥深く入れよ。
パンタグラフを下ろし、針金で縛れ。
メインとブスのヒューズを外せ。
電車区員は工場員と協同して車庫線周辺にバリケードを築き、ピケラインを張れ。
警官隊、非組合員、暴力団来襲時は実力をもって排除せよ。
と書いてある。
(1月27日)


オレも須崎も味気ない晩飯をササクサと食い終わると、外套を羽織って制帽を被り、渡された「防衛隊」の白い腕章を左腕にはめ、追い出されるばかりに詰所を出た
(1月31日)

▼出来仕舞▼
午後3時ごろには工場棟、車庫線にも菜っ葉服は全く消えてしまった。
誰もいなくなるとオレはスーッとした。
3時半、正規の終業までまだ1時間半もある。
「今日、工場、もう止めけえ」
「ああ、(土曜日なんで)出来仕舞だって」
「出来仕舞?何もできちゃいないじゃないか。なにが出来仕舞だ」
(3月22日)

    

 

鉄道ファンにとって貴重な証言

    ▼窓なし電車・雨漏り電車▼
「雨は急でその上凄かった。丸で滝壷の中に電車が飛び込んだみたいだ。正面ガラスは水族館の覗き窓の陽になった・・オレは慌てて側窓のガラス戸を引き上げ ようとしたが、そこにはガラス戸がなかった。覚悟を決めて全身濡れ鼠になる。
客室の中ではもっとひどい騒ぎが巻き起こった。閉めようとする窓のガラス戸は半分以上もなく、鎧戸さえ全部はない。雨は客室を荒らしまわり、みんな総立ち になって怒鳴っている。めちゃくちゃな話だ。


戦争の中ごろから電車は出入り口以外のところからも人や物が通り抜けるようになった。窓ガラスはどんどん割れ、窓枠は片端から壊れた。電鉄はあきらめて何 もふさがなかった。そこで雨が降れば雨水は自由に電車のなかに降り込んだ。
雨は天井からも垂れてきた。屋根のキャンパスがコワ張り、ヒビわれ、キャンパス下のパテがかさぶたのように干からびると、雨は そこに侵みこみ、天井板を通して室内に漏れる。張り替えるキャンパスはガラス同様品不足になりなおすことはできなかった。そこで雨の日は傘をさしたまま電 車に乗ることが時に必要となった。
(9月14日)


▼暗闇電車▼
三両編成の先頭車と後尾車は一応満足に灯りが点いた。ところが真中の車はどうしても点かない。オレは弱って暫く考え込んだが、もう何かする時間はない。 ちょっと面白くない気分のまま稲田を出発した。・・・
こんな暗ヤミ電車が絶えず2,3両ずつ後をたたない。
室内灯の点かないのも困るが、前照灯が点かないのはもっと困る。線路脇から飛び出してくる人、荷車、自動車には電車のきたことがわからない。暗闇の中から ガッと電車がのし掛かって来たってもう引き返す暇はない。仕方なく、警笛を立て続けに鳴らしながら走るほかはない。
警笛も鳴らなかったらどうする。
オレは実際夜、前照灯がつかず、警笛も鳴らない車を運転したことがあった。
(9月28日)


東武東上線芋の買出し▼
芋の(ヤミ)買出しの記録であるが、東武鉄道の評価がおもしろい。省線なみの施設の規模の大きさ、車 両のいたみ方が小田急より少なくいことなど高く評価している。
(10月21日)


▼小田原往復「準急」の実況▼
「運転士見習」海老原研吉君指導のこと。16ページに及ぶ大記録である。特に渋沢、新松田間。下りのブレーキ、上りの力行のハンドルさばきの詳説は傑作。 運転指導書が脇にあるか、身体に叩き込まれていなければ、書けるものではない。
(12月1日)


▼RT運行▼


RT運行は進駐軍専用車を走らせる。200型一両が専用車に当てられ、何から何まで戦前同様に整備されている。車体の窓下に に白帯が塗られ、どんなに車両が足りなくても一般の運行には使えない。まるでお召電車だ。
1日に2回定時運転するが、このほか臨時に進駐軍の鉄道輸送部から命令が出て、異なる時間に異なる区間を走らされることがある。
第34仕業。16:43経堂(回送)新宿。新宿(途中、無停車)相武台前17:49。
相武台(回送:途中、無停車)経堂18:28。
20:25経堂(回送)新宿。新宿(途中、無停車)相武台前。
相武台(回送:途中、無停車)経堂22:13。
(2月16日)

▼本式の車両塗装▼
今度の306定検でオレは本式の車両塗装というものを初めて見た
・・(アク洗い)(トノコ)(砥石)(トノコ)(砥石)(ワニス塗り)(扱き)(ワニス塗り)(扱き)(ワニス塗り)(扱き)・・そういうことで初めて家具並みのワニス仕上げになるのだそうだ。確かに顔が映る位だった。本当の新車だと鮮やかな黄橙色に仕上がるが、塗りなおしではかなり茶褐色になる。これは仕方がないらしい。
剛体の外板塗装も車内内部に劣らず大変だった。

電修工業の塗装屋のボスは清川といった。木原と同様、省の大井工場にいた
「この中はラッカーのカシュー・エナメルのと言ってやすけど、昔あゴウギと漆だったわさ。塗っちゃ砥ぎ、塗っちゃ砥ぎ、十遍も繰り返すなあテエゲエな事じゃねえス。それに天気の悪い日は仕上がりがどうしてもイカねぇ」と言った
(12月15日)

 戦後史にとって貴重な証言

    ▼欠陥電車63型▼
三鷹事件』(片島紀男著・NHK出版) は、戦時型63型の問題を指摘している。

脇田氏も、結びで「乗客はひと思いに死んだのではない。逃げ惑い喚き叫びながら生きたままバーベキューにされたのだ。私は47年に小田急でデッドアース事 件のあったことを思いだした。あの時、運転士の斉田君は真っ先に乗客を逃がさなければと思ったそうだ。そういう着想が国鉄乗務員の頭に閃けばああ迄悲惨な 事にはならなかったろう。車体外のドア用コックが見つけにくかったというが、デッドアース中でも戸閉装置は動くのだ。車掌スイッチの一操作全ドアは一斉に 開き、死者の大多数は非難できたろう。しかし大本は63型が欠陥電車であったことにある。」と51年桜木町事件に触れ、
さらに「三鷹事件では何者かが暴走を工作したというが、63型が自然に走りだすのはあり得るのだ。私は現に経堂で63型が自然に動き出したのを目撃してい る。今にして思えば、経堂の暴走事故はその後の63型事件の前兆であった」としている。

△当時の電車の事情のひどさの実感から「三鷹事件」での63型の暴走の可能性がある、との証言である。
片島氏の著作は当時の国鉄関係者の証言に依存しているが、国鉄、民鉄、労使を含めて鉄道会社は官 僚的な公式発言で(現在もそうであるかもしれないが)、なかなか具体的に信じきれない部分がある。
もちろん、戦後三大謀略事件とされ、死刑判決の出た刑事事件であるからガードの固さは当然でもあるのだが・・・
しかし、脇田氏のように中途で退職した民間の証言があると、暴走事故説を 信じたくなってしまうのである。

(具体的に「電鉄日記」で触れている関連を示す)
▼63型経堂区入線▼
終電後、省線新宿から入線。導入決定、入線までのいきさつ。鉄道省と東急新宿支社(小田急)。経堂区内での63型一般乗務員研修。
(1月18日)

▼63型実地検分▼
オレは客室に入っていった。20メートル車の客室はさすがに広い。
・・・天井は傑作だ・・天井板などぜいたくなモノは張っていない
・・だが床下の配線はお粗末至極だった。金具で床下に吊り下げられた幅20センチ位の木の棚が全長方向や横方向に張り巡らされている。棚の上に1500ボ ルトの主回路用50スクエア線、制御や補助の回路用低圧線、それらがみんなムキ出しで並べられ、所々をテープで縛ってオッコチナイようにしてある。オレは その大胆さに舌を巻いた。そのうちどんな事が起きるか分からないと思った。

・電修工場(株)木原氏「どうだい、この車」「ひどいもんでしょう。戦時型。私がまだ省に勤めていた時分、島原さんという技師が原型を設計したんだけれど も、何しろ材料をなるたけ使わない方針だからね、ずいぶん苦労しられたそうですよ。」
「省じゃ新型を作るときは大抵大井工場で試作してみて、ソイツを徹底的に試験して、それから車両会社と契約するんだ。私は小僧のときから大井工場で、63 型の時は車体検査掛だったから試作の最中から試運転まで、一通り立ち会いましたよ」
「まあなんだね。そんなこと、いっちゃあ身も蓋もないが、この車、1年ともたないね」
「同じ20メートル車のモハ41、モハ60が46トン。これは大体自重42トン・・ねえ、柱という柱、帯、台枠の梁、、2ミリから3ミリ薄いんだ・・
外板も同じ。すじかいなんどもひとつおきときている・・
1年間平均40キロのスピードで走ってご覧なさい。どlこもかしこもガタガタさあね」
*木原氏は電修工場(株)以前は、大井工場勤務の検査掛であったので、詳しかった。

 

▼クハ200型梅丘駅(車両火災)デッドアース事故▼
梅ヶ丘を発車して殆ど直ぐ、斎田は電車の屋根の上にジャージャーいう異音を聞いた。真っ昼間だというのに線路傍の家並みや木立が明滅する閃光を写しているのを見た。今度は屋根の上から火の粉が振り出した。
デッドアースだ!斎田はそう直感したそうだ。急いでエマージェンシーをかけ・・・・頭は「お客を逃がさなけりゃいかん。だが慌てさせてはいかん」で一杯だったという。
斎田は電車の外側を走り、ドアというドアを片っ端から開けてまわった。なんだろうと飛び降りてきた車掌の金町と力をあわせ乗客を社外に誘導した

パンタを下ろさなければ、と斎田は思った・・・・まして火を噴き屋根が燃えている中では怖かった。
斎田がパンタグラフを押し下げたとき、架線は溶断して一方の切れ端がパンタグラフの枠の中に巻き込まれてしまった。折角パンタグラフを下ろしたのに電気は咥えこまれた架線を通じてどんどん流れた。火の手は室内の天井板に燃え移った。
・・・・線路傍の人の群れに「水をください!水をください!」と連呼した。線路傍の家々の人々がバケツに水を汲んで馳せつけた。戦争中そっくりのバケツリレーが始まった。屋根の上では斎田が燃えあがる火に水をかけ、車掌の金町や2,3人はモハの車内に入って下から天井に水を投げつけた・・・
(2月19日)


▼デッドアース事故の原因▼
事故を起こした207号車は、屋根と天井の一部が燃え約70センチ四方の穴が開き、天井から空が見えているという。
(パンタ)の台座と支持台の間には碍子がかってあって1500ボルトを絶縁している。ところが立ち上がり線の被覆が傷んで中身が支持台に触れ、1500ボルトがモロにアースに繋がったからデッドアースになった訳だ。資材不足の現在、電車内の配線は相当老朽しているから、いつまたデッドアース事故が起こるか判らない。ただオレが運転するときだけは絶対起こらないでくれ。
(2月22日)

▼モハ201号「配線不良故障」▼
これはスイッチ・グループの故障じゃない。マスター・コントローラでもない。配線だ。配線不良だ。
(コンジットから、線を)引きずり出した。何の事はない。灰で包んだ銅縒り線の束だった。オレと市村はそっと扱いながらこれを電車の傍らに長々と置いた。
オレは火葬した蛇のような電線の残骸を眺めてゾットした。電車区時代、このモハ201は何度も運転した。
それにしても一体、いつどんな調子で燃えたんだろう。恐らく一度に燃えたんではなかろう。どこか1箇所が燃え、スパークのたびにジリジリと燃え広がったに 違いない。そして被覆の燃え殻が絶縁のハタラキを失った時、ハッキリと故障を訴えたのだろう。
そういえば、今までも訳のわからない制御不良事故が随分あった。なんとなく修理を繰り返し、なんとなく故障が再発した。ああいう車はみんあこうなっている のかも知れない。恐ろしいことだ。
(6月18日)

 

▼63型暴走事故▼
どういう訳か一番線(経堂駅下り)に停車中の63型が突然、スルスルスルと新宿の方へ走り出した。乗務員は泡を食って乗務員室に飛び込んだ。恐らくエマ ジェンシーを掛け、無人暴走を始めた63型を止めようと焦ったことだろう。しかし63型は止まらなかった。暴走電車は豪徳寺の上り坂へと見る見る遠ざかっ ていく。
その時だ。63型の乗務員室の扉口に乗務員が姿を現した・・・這いつく張り、足掻くようにしてパンタグラフにたどり着き、渾身の力でパンタ枠を押し下げ た。
電源を絶たれた63型はやっと止まった。


(8月14日)
緊急の検討会が行われた。
現場テストではわからぬので、日本車両蕨工場に回送して徹底調査することになった。

オレは考える。
事故のとき、運転士はマスコンのキーを抜き、制御スイッチもオフにした。この状態で電車が動くはずは絶対無い。だのに、電車は勝手に走り出した。なぜ か」
「事故のとき、電車は上り方向に走り出した。これは2位マスコンの制御線(前進走行)に電気が流れたに違いない。オフ状態になっているのにどこからどうし て電気が流れ込んだのか。これが先ず問題だ」
「次に電車は走り出し、どんどん加速していった。これは(別の)制御線(シリーズ走行)にも電気が流れ出した証拠だ。63型では、制 御線(シリーズ走行)に電流があればフルシリーズまでノッチが進む。あるいは(別の)制御線(パラレル走行)まで電流が流 れていたかもしれない」
「結果的に、制御線(前進走行)(シリーズ走行)(パ ラレル走行)に傍らから漏電があったことは紛れも無い事実だ。あの時、電車は止まっていた。制御回路はオフ状態にあった。だが、パンタは上がっており、 MGの高圧回路、低圧回路、コンプレッサーは生きていた・・

配線の一部は床下の配線棚で制御配線と雑居している。コシタンタンと漏電も機を覗っている電気には漏電のチャンスはいくらでもあった。
そこで絶縁不良が問題となる・・・半オフ・・・」
「それにしても、63型は一体どういう電車なのだ・・要するにモハ63型は欠陥電車なのだ。神経系統が異常なのだ。」
(8月15日)


日本車両より報告があったそうだ。
「精密検査の結果、異常は発見されなかった」
「しかし、これでOKとはいえないので、配線総引きなおしをしたい。床下の配線棚は廃止し、系統別電線配管方式にする。改装所要工期、概ね1ヶ月」
(8月25日)
一昨日の23日、801、851の編成が帰ってきた。
床下の配線棚は綺麗に取っ払られて、主回路、高圧補助回路、低圧補助回路、制御回路ごとに電線管を別にして張り巡らしてある。始めて電車らしい姿になり変わった。
・・・始めからこうして置けば問題がなかっただろう。戦時中は資材難でできなかったのだろう。63型はいわば可哀想な戦争の申し子だったのだ。