策略  女性を軍事化する国際政治

策略  女性を軍事化する国際政治

 

 

岩波書店

2006年3月23日

シンシア・エンロー著
上野 千鶴子 監訳
佐藤 文香 訳
     「女らしさ」の観念とは誰がどのようにして作りあげたものなのか.そしてそれは女性たちをどのように分断しているのか──著者は読者をそのような問いへと誘い,「女性の軍事化」という理論的枠組によって,かけはなれた状況にある女性たちを1枚の絵の中で鮮やかに結びつける.軍事とジェンダーの深い関係が照射される.

◆
イントロダクション………上野千鶴子…
日本語版への序文……シンシア・エンロー…

序章

第一章スーブ缶はいかに軍事化されるか??
女子高生が行進する時
軍隊におけるレズビアンとゲイ
軍事化と男らしさと決定

第二章洗濯女、兵士そして国家
軍隊はキャンプ・フォロワーを必要とする
たんなるもうひとつの家父長性以上のもの

第三章兵士がレイプする時
娯楽を求める兵士たち
国家安全保障としてのレイプ
フィリピン
チリ
「戦利品としてのレイプ」
-戦争、レイプ、フェミニズム、ナショナリズムー‐
野獣、少年、紳士

第四章兵員の充足。
母として、兵士として、フェミニストとして、 ファッションデザイナーとしての女性の軍事化
徴兵制廃止後‐軍事化された民間人、傭兵、子ども兵士
市民権の男性化、母性の軍事化可
どの兵士がハイヒールを履くべきか?
国軍女性兵士についてのフェミニストたちの考え

結論ー決定、決定、決定


第三章兵士がレイプする時
   

娯楽を求める兵士たち
彼女たちは戦争被害者のリストにのせられる。レイプは戦争の悪夢を呼ぴおこす。だがそれは、「戦利品としてのレイプ」というまさ に戦時の不快きわまりない混乱状態のなかで見分けがつかなくなってしまう。
したがって、特定の男牲兵士によって行われた特定のレイプを可視化しようとするとき、私たちは政 治的活動に従事することになるのである。これは意識的に行わなければならない活動だ。というのも二 つの罠が待ち受けているからである。第一に、女性たちの声に耳を傾けなければならないが、その物語 は複雑になりがちだという認識が必要である。アティナ・グロスマンは、一九四五年と一九四六年に、 主として(それだけではないが)ソビエト軍が行ったドイッ人女性に対する広範なレイプについての、つ かみにくい、しかし非常に衝撃的な歴史を暴露するというやっかいな仕事に着手した研究者である。軍 事化されたレイプ‐-残忍な戦時レイプや大量レイプでさえ--についての「真実」を暴くことが単純 な仕事だと誤解している人々に対し、彼女は次のように警告する。「女性たちの強姦の物語は、その聞 き手や、語りの背後にある動機によって形づくられ、信じられないほど複雑に構成されていた。彼女た ちの経験は、多種多様なイメージや言説の複雑な網目のなかで秩序づけられ、意味を与えられていたのである。 第二のわなは、軍事化されたレイプを暴くことが、自動的に女性の脱軍事化につながるわけではない、ということである。男性の同胞たちに、女性のーそして彼らのーいわゆる失われた名誉のために武器を取らせようとし、彼女のつらい経験が表ざたにされるのならば、この女性は再軍事化されることになるだろう・・・ だから私たちにとって大きな課題とは、その過程で男性兵士にレイプされた女性をいっそう軍事化することなしに、彼女たちを彼女たちを目に見えるものにすることなのである。 男性兵土が「外国人」だと思っている女性に対して行うレイプ
町男性兵士が「非番中」に同じ同籍の民間人女性に対して個人的に行うレイプ
男性兵士が、以前は全員男性の部隊だったところに入ってきた女性の存在に憤慨して、あるいは、自 分とデートしようとしないとか、自分になぴかないとかで腹を立てて、同じ軍の女性兵士に対して 行うレイプ
見張り番をしている男性兵士が、軍刑務所に留置されている女性に対して行うレイプ、尋間を行う兵 士が、情報を吐かせるという明自な目的で、取り調べ中の女性に対して行うレイプ
侵略している兵士の集団が、異なる人種や民族の女性たちを故郷から追いだすために行うレイブ
ある集団やある国の兵士が、主として、敵対する集団の男性を侮辱する目的で捕虜の女性に対して行 うレイブ
ある民族、ある人種、ある国籍の男性が、「敵」の集団の男性をレイプすることで「たんなる女」な みに貶め、辱めるために行うレイプ
戦闘の後、部下の士気を高める褒美として、男性士官の許可により、女性に対して行うレイプ 戦時の難民キャンプの男性避難民による、あるいは、キャンプの女性避難民を守るよう任命された男性による、女性避難民に対するレイプ
売春周旋屋の男性が、兵士のための売春宿で働かせようとする女性に対して、その仕事の「準備」の ために行うレイプ
被害女性と同じ人種や国民共同体に属する民間人男性が、軍事化された雰囲気のなかで育まれ許容さ れている女性蔑視を行動に移して行う戦時のレイプ
軍事化を支待している男性が、自分たちと同じ共同体に属していると思っている女性で、軍事化に公 然と逆らっている者に対して行うレイプ
リストはまだまだ続けられるが、これとて完全なものではない。

軍事化された女性と軍事化された男性との関係に徴妙なニュアンスがあるのと同様に、軍事化された レイプにもさまざまな形態がある。にもかかわらず、それらは共通するいくつかの重要な特徴を持っている。

第一に軍事化された男性強姦者はレイプする女性に対しても性的陵辱という行為に対しても、何らかの方法で「敵」「兵士であること」「勝利」「敗北」についても自分の理解をおしつける。
第二に、その結果、軍事化されたレイプは、そうでないレイプよりも、個人化・ するのがいっそう難しい。というのも、軍事化されたレイプは、社会的紛争のイメージおよぴ/または 国家安全保障や国防組織のような公的制度や武装反乱軍の機能から、その理論的根拠の多くをひきだし ているからである。
第三に、軍事化されたレイプを生きのぴた女性は、その凌辱の後、自分と強姦者と の関係、個人的な友人や親戚との関係、女性の品位という一般的な規範との関係、そしておそらく刑事 裁判制度との関係をよく考え、分、週、年といった単位で自分の対応を考えていかなければならない。 それだけでなくさらに、集合的記憶との関係、国民の運命をめぐる集合的見解との関係、そして、組織 化された暴力制度そのものとの関係もよくよく考慮しなければならない。 本章で、私は、レイプが軍事化されている特殊な条件を三つに限定して探究していく。その三つの形 態は、近年、多くのフェミニストの注意を引いているので、それらを理解することは特に重要であろう。 その三つとは、
(1)男性兵士に「十分に利用可能な」軍事化された売買春が供給されないために起こる と言われる「娯楽的レイプ」、
(2)不安に陥った国家を景気づける道具としての「国家安全保障レイプ」、
(3)明自な戦争手段としての「組織的な大量レイプ」である。

国家安全保障としてのレイプ
もし私たちが売買春と関係つけられた「娯楽的」レイプや戦時レイプにばかり関心を向けるなら「国家安全保障」に対する脅威と考えられるもので頭がいっぱいの政権の下で、女性たちを軍事化するためにどのようにレイプが利用されてきたのか見落としてしまう危険性がある。
国家安全保障というフィルターを通して国内の政治的対抗勢力を見ている全ての政権が、必ずレイプを行なうわけではない。 イギリスのフェミニスト研究者サラ・ベントンはいかなる内紛でのレイプ利用にそれぞれ個別の問いを立てるようーつまりレイプを自明のものと考えてしまわないようー私たちに警告している。 (1916年のイースター蜂起後のアイルランドの武力紛争を調査した彼女は)イギリスの治安部隊が行なった残酷な手段を用いたことのたくさんの証拠を発見した・・・1920年代の紛争がジェンダー化されていなかっらとも結論づけはしない。むしろ彼女はさらに踏込んで、イギリス軍によって広範なレイプが行なわれているというアイルランド民衆の思いこみがナショナリズム運動にアイルランド女性を動員するためにいかに利用されたか、そして同時にアイルランド女性は無力でありアイルランド・ナショナリストの男性藤氏の「兄弟愛」の庇護を要するのだというイメージを保持するのに、いかに利用されたかを検証した。 国家安全保障の名のもとで、軍事化されたレイプがとりわけ生じそうな条件とは、

1.その政権が「国家安全保障」にかまけている時、
2.民間人の大多数が、安全保障とは軍事的な問題としてもっともよく理解できるものだと信じてい る時、
3.国家安全保障の政策立案が、主として男性化された政策エリートにまかされている時、
4.警察と軍隊という安全保障機構が男性に支配されている時、
5.名誉、忠誠、反逆の定義が、警察や軍隊の制度的文化にもとづいている時、
6.それらの支配的な制度的文化に、性差別的な女性蔑視がある時、
7.安全保障上の脅威であると見なす男性が、父、恋人、夫としての立場においてもっとも脆いと安 全保障当局によって見なされている時、
そして、童要なのは、
8.地元の一部の女性たちが、その政権の政策に対する組織化された反対勢力として、公的に目立つ ようになりはじめている時、
これら八つの条件のうち最初の七つが進行するにまかされれば、たとえその国が戦争状態になくても、 軍事化されたレイプが起こりうる。そして、一九七○年代後半には、フィリピンやチリのようにそれ以 外には共通点のない国々で、八つのすべての条件が成立したのである。

フィリピン

チリ

「戦利品としてのレイプ」
戦争、レイプ、フェミニズム、ナショナリズム
1994ルワンダ
1991~1995ユーゴスラビア
野獣、少年、紳士

 

結論ー決定、決定、決定

 

鉄路の証言―国鉄青梅事件1952

鉄路の証言
 
光陽出版社
 
2005年5月刊
野崎梅子 著
  一九五二年、国鉄青梅線小作駅で貨車流出事故が発生、翌五三年一月、ひとりの気弱な青年が強盗予備容疑で逮捕された。想 像を絶する拷問による自白強要……。「青梅事件」十五年余にわたる裁判闘争はこうして始まった。真実を追求して生きた女性の成長と感動のドラマ! 日本国 民救援会中央本部会長山田善二郎氏推薦
 

日本国民救援会中央本部会長山田善二郎氏推薦

◆鉄路の証言に寄せて

青梅事件は(国鉄当局が明確に)職員の過失事故として処理していた「貨車流し」貨車流出事故を日本共産党員らの鉄道妨害事件としてでっちあげた権力犯罪である。
政治問題に無関心な青年を逮捕,(封建時代を思わせるような凄惨な)拷問を加えてウソの自白を迫り、その自白をもとに野崎邦夫氏らを逮捕、起訴するという 謀略的手法がとられた類稀なる権力犯罪であった。
(一審の有罪判決後もウソの自白を維持し,町の片すみで小さく蹲っていた社会や政治に関心もない青年たちを説得してたたかいに立ちあがらせ、その青年たちを取りまとめながら十五年余りに及ぶ裁判闘争をたたかい勝利を勝ち取った野崎夫妻の労苦は語り尽くしえないものだったと思います。)本書は長期にわたる裁判闘争のい記録であると同時に真実のためにひたむきに生きたひとりの女性の物語である。
(真実と正義のために生活の全てをかけた人間の物語であるこの書が、とりわけ日本の未来を担う若い人々の間に広められ,自由と民主主義を守るための糧とな ることを希望してやみません。)
 

野崎梅子氏について

  1922年あきるの市(旧五日市町)に生まれる。
自らの人生そのものといえる「青梅事件」と、無実の罪に陥れられようとした夫野崎邦夫を中心とした被告たちの十五年余りにわたる裁判闘争そのもの、その歴 史と人生を描き残しておきたいという止むに止まれぬ欲求があった。野崎にとって「青梅事件」はライフワークとなった。八十歳をこえた野崎にとってその作業 (構成・2回にわたる推敲作業)はかなりハードなものであったに違いない。だが作品はあるみずみずしさとよりいっそうの深まりをともなって完成した。
 
 

勝利の保障は被告団の団結

自白被告は最大の犠牲者であり間違っても彼らを敵視してはならない


     (分裂)
1964年原水爆実験禁止をめぐる社共の対立がくすぶりはじめて、「中央青梅事件対策協議会」結成大会は自然流失の形でひらかれなかった。
しかし、無実のものに無罪判決を、という単純明快な目的を追求する青梅事件はなんの意見の相違もあるわけではなかったし、分裂の理由も原因も無かったの だったが、広範な盛り上がる大衆運動という基盤が築かれていなかった青梅事件では、中央団体の役員間の交渉の段階にあった中央対策協議会準備会は暗礁に乗 り上げてしまった。
あるとき両方の被告団が県評の事務局で鉢合わせをして、県評の事務局長が困ってしまって、結局両方の言い分を聞いた上で地域分担をして療法を受け入れた~
~その結果多くの人々が
「裁判闘争の分裂は前例が無い。権力と闘っている被告団が分裂していて裁判に敗れたら刑務所に入るのは被告だ。このことを肝に銘じ、1日も早くこんな不幸 な状態を終わらせて統一してほしい」

 

(高裁での敗北)
判決「(証拠がないということは)証拠によって把握することはまことに困難」であり「黙秘のカーテンの彼方に置かれた事柄というのほかなく」わからなくて 当たり前である・・・
判決「(各人の自白の矛盾は)各人各様の認識としてまことに妙味のあるところというべく」・・・
判決「拷問の事実はない」


この判決の内容と本質は多くの人々の怒りを燃え立たせ、その人々に被告たちの無実と権力の犯罪を確信させる力強い材料になるはずだった。
敗北のなかに勝利への大きな転機が潜んでいるはずであった。

勝利への転機をしっかり押さえ、運動を進めるならば必ず道は開かれるはずだった。
では、なぜ負けたのか
被告団が統一できたから必ず勝てると信じていた被告と家族は、裁判というものが決してそんな生やさしいものではないことを改めて真剣に考えなければならな かった。
青梅の被告,家族は、松川の被告や家族のようにたたかい、真実を訴え歩いただろうか?裁判のことは弁護士に任せ、運動のことはA氏にまかせ、たまの集会や 現地調査に顔を出す程度のことしかしなかったではないか。殆どの被告は妻子を養うことにかまけて事件とはかけ離れたところで生活していたといえないだろう か。
だが、もうあと最高裁しかなかった。そこで負けたら実刑組は刑務所に入らなければならないのだった。
しかも、裁判所は判決文の朗読はしたものの判決書はできておらず、判決書が弁護士に渡されたのは四ヶ月後だった。


(松川事件被告阿部市次氏から青梅事件被告への手紙)


「問題がこれほど山積みし、きびしい階級闘争が、しかも敵側からしかけられているのに、どうして楽観などできましょう。それは私たちがかつての敗北の道そ のままを辿っているに過ぎないことを知ってください。その遅れた最も弱い部分に仕掛けられた攻撃をどうやって粉砕するかを率直に真剣に考え、お互いに討論 していきたいと思っています。ともに同じたたかいですから私見を申し上げましょう」
1.統一戦線を強化するために何に重点を置くべきなのか?ということを考えてみてください。被告団・弁護団の統一はただひとつ,真実を明らかにすること以 外にないのではないでしょうか?

2.法廷内においても、従ってこの真実を明らかにすることであり、この事実をもってこそ獄外の陣列に参加し、強化することができると信じます。
3.なぜ自白させられたか、そのためにどれほどの重要な政治的損害を与え、そのことによる苦痛を味わわねばならないか?大胆にこの点を認め、誠実に国民に 訴えていく必要があるでしょう。

 

そこで具体的な問題が生じてきます。

 

(イ)第一に真実を明らかにするということはどんなことなのか?これは無数にあります。自白の成立過程、どういう誘導、脅迫、前後の関係から作り上げて いったのかの解明、無実の証拠、検察の証言に対する反駁準備等等。
これはけっして法廷戦術だけの問題からいっているのではありません。
松川のいままでのたたかいの経験からいえば「どうして自白したのだろうか」「あんなに自白調書があるのにどうして無実だというのだろう。やっているのでは ないか」等の大衆の批判に何をもって答えることできるでしょう。
中央公論の広津さんの方法を学んでください。これは大切なことです。

(ロ)通信活動は本当に大切です。労働組合の機関紙、その他の機関紙に積極的に訴え、調査団の派遣および公判傍聴をたたかいとることはどうしても大切で す(イ)(ロ)のことを実現するためには、被告団の結束はもちろんですが家族の結束も大切です。しかしなんといっても被告団の結束です。このあtめには 「まつかわ」形式の機関紙を発行し、全被告が参加し、そのなかにあらいざらいぶちまけていく方法をぜひ採用してください。

 

(松川事件被告阿部市次氏から青梅事件被告への手紙)


被告個々人は自分が不運だったと考えるのではなく、日本の労働者階級の尖兵として選ばれたのだという自覚,そして自分を救ってもらうことは、労働者全体が 救われるのだという自負をどうしたら持てるのかということです。
自分の殻にとじこもったら抜け道はありません。
拘置所の処遇はどんな具合ですか。全収容者の要求を調べて、その実現のため貴方がたがその先頭に立ってたたかいとるべきでしょう。

(青梅事件被告団の討議・確認)


1.われわれ(5人の否認組)がより団結するために、定期的にガテ(獄内手紙)により連絡を取り合って、どんな小さな問題でも話し合い苦楽をともにして助 け合い、長い公判闘争をたたかい抜こう。

2.来信を交換し合って家族が助けあえるようにしよう。

3.私たちには公判を妨げない範囲での自由が許されている。
ところが事実において不自由な点が多い。どんな小さな要求でもどんどん出してたたかいとり、長い拘留生活に耐えていこう。

4.勝負のカギは一人でも多くの国民に真実を知らせることだ。ひとり1ヶ月に五十人以上に手紙を書こう。

この申し合わせと前後して被告段は所長面接をおこなって処遇改善の要求を出し、次の事項をかちとった。
私物購入日と申込み方法
私本の削除は理由を添える
房内のタンツボとついたて
運動用具の利用
臭い飯、ガンジ飯(半煮え)をなくし、その場合は必ず交換する。5等飯は少ないので考慮する。
書信の削除を無断でしない。その日のうちに検閲して出す。
今後どんな問題も所長と話し合って解決していく。

 

 

 

 

安全神話崩壊のパラドックス

治安の法社会学

  ・・・社説になると朝日新聞は明確に厳罰化に対する懸念を示している。文化欄の記事も厳罰化に懸念を示すのが通常であ る。

ところで、関連記事に普段すべて目を通しているはずの私でさえ、犯罪情勢は悪化しており、厳罰化の流れがあるかのような印象を抱かされているかのはなぜで あろうか?その答えは記事の見出しにある。
・・・しかし、デスクに責任があるのであろうが、多くの読者は見出ししか読まず、ましてや社説など読んでいないことを認識するべきであろう。
・・・犯罪不安の高まりが先なのであろう。空騒ぎで済ませずに、この不安の高まりの原因を探るべきである。
今、健全な住宅街に限定して、その変化を見ていこう。河合 幹雄
 

◇◇◇◇

犯罪が増加し凶悪化しているという認識はどこまで正しいのか.現実を必ずしも正しく反映していないこの言説の意味を検証 し,実態分析を基に今後の社会変化と法状況の将来を展望.法とは何か,社会関係のあり方を問う刺激的考察.

 

◇◇◇◇

 

カバーにしっかりと「著者は統計資料の徹底的な読みこみをとおしてわが国の犯罪状況を分析し、近年の通説が現実を正しく反映していないことを考証。なぜそのような言説が一般的にまかりとおるのことんびなった のか、その背景と言説自体がもつ意味を明らかにした上で、欧米社会との比較を加えつ つ、今後の社会変化と法状況の将来を展望する。
法とは何かを問うことを通して、わが国における司法制度や社会関係のあるべき姿について考察した・・・」とある。

・・・素人市民に犯罪状況を説明する困難は、素人の実感と統計的事実がスレているからである。そして、このズレの原因こそ、究明の価値があると考えられ る。最も単純には、現在の治安悪化が間違って信じられている以上に、過去が安全であったのがウソだったのが原因ではないかと考える。
・・・焦点は、治安維持の伝統仕組みの揺らぎである。
治安維持の伝統仕組みは、、むろん安全神話と連携してきた。その重要な特徴のひとつは、その仕組みが隠蔽されてきたことである。もっと明確に言うなら、隠 蔽した形でしか機能しない仕組みであった。そして、うまくいっているから(これ自体が安全神話だが)という理由で治安関係の情報開示は極端なほど控えられ てきたと考える。この考えに立てば、この治安維持の伝統的な仕組みと安全神話のメカニズムを明らかにすることは、そのメカニズムを葬り去ることを結果的に 引き起こす。私は、そのことを十分に自覚した上で、それを実行し、将来のあるべき社会像に結び付けたいと考えている。これが本書の中心的狙いである。

 


基本モデル
オオカミとウサギの共同体。
オオカミとウサギが同一地域に共存するといえば、そもそもその比喩を借りてきた自然界において、実はあたりまえに実現している・・・両者とも同一地域に存 続するのは、オオカミとウサギが出会わないからである。・・・避けつづけることによる衝突回避、つまり秩序維持をはかるモデルもありうるわけである。
人間社会にあって、構成員が避けたがっているような集団を共同体と呼ばないというのも1つの考えであろうが、社会的、文化的境界によってお付き合いを限定 することは、よく観察されることであろう。私は本書で、この境界の機能にとりわけ注目したい。犯罪の世界でがは境界がはたす役割はきわめて重要であると私 は考えている。
・・・
(繁華街vs郊外の住宅街)街の境界の弱体化によって犯罪の危険にさらされる可能性が増大する、あるいは心理的に守られている感覚を喪失するようになって いると考えられる。
守られているという感覚とは、境界によって区切られて、ある囲いのなかにいると感じることと、ほぼ同義であろう。
日本の安全神話について、この守られたウサギたちのモデルを使って説明したい・・・

(防犯力の衰退)
軽微な犯罪の更正と・マージナルマン・身元引受人の能力、世話好きの減少~
業界頼みの防犯力の低下・質店(盗品)、ガソリンスタンド(交通事故、ひき逃げ)など、また犯罪者の社会復帰の受け皿としての業界など、弱体化が目だって いる。
(エリートと共同体)
このように考えるならば、共同体として最も問題なのはいわゆつ郊外ニュータウンであろう、、、有名な突飛な犯罪事件の多くはニュータウンで起きている。赤 坂憲雄は、いじめについて強いものが弱いものをいじめるのでなくて、同質社会で、誰もが自分がいじめの対象になるかもしれない状況において、その怖さか らいじめが発生しており、ニュータウンはその典型例としている。

警察,検察、裁判所、矯正、保護、いずれの分野であれ、その幹部が犯罪者がどのような人々なのか理解している必要がある。さまざまな観点からかけているも のがある。不幸で不運な人々のことを理解していなくて、幹部がその責務を果たすことができるはずがない、、、個人を完成させるという視点からいっても、全 てを含んだとまでいかずとも、大きな多様性を含んだ共同体が不可欠なのである。
(要求の高い住民ー「自由」な人々)
変化の中心をなすのは、人々を拘束してきた伝統的共同体の衰退、それっもとりわけ匿名社会化であったことである。匿名化は差別を解消に向かわせた。そし て、この差別こそ、犯罪者を一般住民から隔離するという排除を行ないながら、社会全体から追放しないで再統合する方法の環であった。
共同体から「自由」になった人々はミニコミを失い、マスコミに頼る。その結果、犯罪情報のマスコミを通じての公開が要求される。彼らは好きな時間に、どこ にでも出かけて、その上で安全を要求する。合理的な判断ができる責任が持てる個人ならば、完全な安全など実現できるはずはなく、しかも要求するだけでな く、自分たちが協力することを考えねばならない。安全神話に守られなくなった後にうまれたのは、不安に耐えられない個人とも市民とも呼べない「要求の高い 住民」であった。

正しい情報公開を求めるならば、公的機関の無謬神話は捨てなければならないし、犯罪行為あるいは犯罪者との共存を受容しなければならない。犯罪学者とマス コミが協力し合って、一般向けに啓蒙あるいは説明することが必要である。

・・・厳罰を排し、赦しを与え、ひとりひとりを個別に丁寧に扱う、よき伝統の継承が危ぶまれていると感じるところもある。たとえば、近年量刑は二倍になっ たし、少年事件の簡易送致が拡大している。表面上の法制度ではなく、私が本書で記述した、日本の治安政策の「知恵」について,よく理解していない刑事司法 職員が、少なからず存在するように思える。この知恵について、それが失いかけている今、継承すべきところとそうでないところを論じる必要があると考えたこ とも本書執筆の動機であった。安全神話は捨てるほかないが、良き伝統は残すべきである。

(蛇足)
治安の悪化が叫ばれる現在、それだけでなく、日本中をペシミズムが被っているように感じられる。
これは視点を変えると、何かペシミズムを醸し出したい者が、そのネタに治安問題を使っていると考えられないであろうか。
賃下げするために、みなを納得させるためにペシミズムが必要とされており、治安問題はその雰囲気作りに使われてているという仮説が提出できる。乱暴過ぎる 議論であるが、治安問題を、さらに大きペシミズム問題との関連を意識して捉えることは必要であろう。


本書の100ページほどは、数値の分析という興味のある構成となっている。検挙率、犯罪者比率、認知件数、発生率などである。本書で最も需要なものは、こ の数値にある。

都心周辺の代議士の政治主張に頻繁に取り上げられている「治安不安」が、このようなもの数字上に形成されたもある。地域での犯罪統計が公表されている時 代、新宿、渋谷などの旧来の繁華街でのシステムと都心周辺でのシステムを別のものとして理解することは難しくないであろう。

 

 

科研編:化学兵器手当~不健康業務恩給

科研三部設立と化学兵器手当(化兵手当)支給

第二課から第三部への昇格


制度調査委員報告に基づき、大正14年5月1日、化学兵器研究所掌の科研第二課は「部」に昇 格し第三部と称することになった。その人員は高等官約二十名を含む約百名、編成等は次のとおり である。
部長陸軍少将岸本綾夫(11期、大将)
調査班長陸軍砲兵大佐久村種樹(14期、中将)
防護班長陸軍工兵中佐安達十九(18期、中将)
整備班長陸軍技師鹿島孝三
運用班長陸軍砲兵大佐久村種樹
衛生班長陸軍二等獣医正田崎武八郎(獣医中将)
各班の所掌業務は次のとおりである。

調査班 庶務及ぴ各班の研究の統制、並に調査に関する事項及ぴ瓦斯の平時用途と瓦斯気象に関する事項、その他瓦斯に対する金属の保存耐久に関する事項
防護班 瓦斯防護に関する一切の事項
整備班 化学兵器の合成及ぴ製造に関する事項
運用班 化学兵器の兵器化、効力試験及び発煙に関する事項
衛生班 瓦斯の毒性及ぴ毒性徴数に関する事項及
ぴ瓦斯中毒治療に関する事項

各班は、それぞれ、高等官(将校及ぴ技師)、判任官(下士官及ぴ技手)、雇員及ぴ工員からなり、高等官(各班数名)は主任研究官として分担事項の研究に従事した。当時の第三部の研究費は年間約十五 万円であった。
この編成は大正14年の発足時から終戦まで二十一年間、殆んど変ることなく、一貫してそれぞ れの分野で研究を進めた。
イーブルで化学戦が生起してから十年、第一次大戦が終了してから六年を経て、漸やくわが国の 化学戦の本格的研究がスタートした。

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大正14年4月27日勅令第一五二号
(要旨)軍備整理二伴ヒ科研ノ組織ヲ変更スル従来ノニ課制度(物理的及化学的事項ノ管掌)ヲ三部二改メ毒瓦斯二関スル研究ヲ加フ

第三部の編成の特異点
第三部の職員の中には若干の軍医、獣医、及び薬剤官を含んでいた。この点は他の兵器技術研究機 関と趣を異にするところであるが、これは決して、瓦斯傷害を受けた人馬の診断治療に当たるもので はなく(一般的な診断治療は軍医学校及ぴ獣医学校に委ねられてた)、瓦斯効力の発現の状況を医学的、獣医学的に研究するため配置ざれたものであった。

また、技師、技手の数が他の同類の機関に比べて多かった。これは第一次大戦勃発前後から強く 叫ばれ始めた科学振興の声に応じて、大学、高専が技術系学生の収容能力を増やしたこと、及ぴ化 学工業振興の国策に応じて優秀な学生が化学部門に集まったこと等により、必要を人員を採用しや すかったことによるものである。加えて、後述するように思い切った処遇上の優遇策を講じたこと も影響した。

 

研究施設、設備の充実  戸山・科学研究所敷地内  関東大震災の影響


大正12年度予算で認められた化学兵器研究設備費二十五万円で、戸山ケ原の科学研究所敷地内に 研究室、製造実験室、埴実実験室等を設備することとし、大12年9月1日午前11時、応札業者を集めて入札した。ところが落札した途端、午前 11時58分に関東大震災が発生、この思わぬ天災のため落札は白紙に戻し、後日、改めて再入札することとなった。その結果、震災復興の物価高のた め約二割高となったので、やむを得ず研究室を縮少して予算範囲内にまとめ、再々入札を行ない、なり、翌13年4月には鉄筋コンクリートニ階建約 百二十坪の建物と製造、実験設備が完成した。ちょうど同年4月に科研第三部が新たに発足したの と時を合わせて、研究設備ができ上った。

設備の増強


更に大正13年4月、久村中佐、鹿島技師の米国毒瓦斯施設視察の後、両名は軍中央部を説得し て新たに科研の化学兵器研究設備費百二十万円、毎年の研究費三十数万円を獲得した。この予算を もって研究室二棟百八十坪のほか付属建物を建設し、実験室約西十室、小工場約二十室並ぴに試験 用爆発井などが使用できるようになった。
昭和初期には人員150名となり、十数回の野外実験を行ない、研究の完成したものから逐次制 式制定をみるに至った。

研究支援体制の整備
有能な研究者の獲得

 


化学兵器の研究は未知の分野を開拓するものであり、長時日を要することが考えられたので、研 究者は今後長期間にわたりこの研究に専念できるように少壮有為の将校や技師が選ぱれた。とくに 将校は砲工学校高等科を卒業した者や、員外学生として一般の大学を卒業した者の中から選ばれた。 技師は大正14年以降、大学、高専卒の優秀な人材を獲得した。このため、当時一般の会社の初 任給が大学卒で八十円のところを百円で採用した。採用された者は、実際に、将校、技師とも優秀な人 材が多かったのである。

この第三部の創設とその研究に要する費用は、四個師団を廃止することによって節滅した費用の中 から転用したものであり、化学戦の技術的研究は当時の陸軍における重点施策の一つであった。この趣 旨は科研の職員に普ねく意識ざれ、待遇上の優遇とあいまって、研究意欲は極めて旺盛であった。    

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化学兵器手当の支給勅令
大正十四年十一月十四日
勅令第三一四號
化学兵器手當給興ノ件

朕化学兵器手當給興ノ件ヲ裁可シ茲二之ヲ会布セシム

化学兵器二関スル研究ノ為鳥其ノ試験、製造、検査及取扱ニ従事シ直接其ノ危害ヲ受クル虞アル睦海軍軍人軍属(軍属二非サル職エヲ含ム)ニハ別表ノ化学兵器手當ヲ給ス

本令ヲ適用スヘキ化学兵器ノ範囲及化学兵器手當ノ給興細則ハ主務大臣之ヲ定ム

別表 階級 月額 陸軍一(海軍省略)
将校、同相當官、高等文官、同待遇者 六十円以内
准士官、見習士官、見習医官、見習薬剤官、見習 獣医官、判任文官一等 四十円以内
下士、判任文官二等以下、判任文官待遇者二十円以内
兵卒二十円以内

一、主務大臣ハ常時ノ勤務二非サル者二封シ月額ノ二十分ノーヲ超エサル範囲内二於テ日額二依り化学兵器手当ヲ給スルコトヲ得但シー月内ニ於ケル支給額ノ合計ハ月額ヲ超エルコトヲ得ス
二、特ニ危険ト認ムル作業二従事スル者ニハ別ニ月額ノニ十分ノー以内ノ日額ヲ増給スルコトヲ得但シ月内二於ケル其ノ支給額ノ合計ハ月額ノ五割ヲ超エ ルコトヲ得ス
三、陸海軍二於ケル本表二掲ケサル者二封スル化学兵器手當ノ額ハ本表二準シテ主務大臣之ヲ定ム

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(趣意書)
欧洲大戦以来新兵器ノ進歩二伴ヒ化学兵器(毒瓦斯)ノ研究ハ軍事上最緊要トナレリ然ルニ之力試験製造等ノ現業二従事スル者ハ常ニ萬全ノ注意ヲ沸フト雖モ尚絶エス其ノ中毒ニ罹リ或ハ不慮ノ災害ニヨリ死亡又ハ不具廃疾トナルノ不幸ヲ招クコトアルハ欧洲ノ事例二徴シ明シテー般ニ嫌忌且危険視セラルルモノナルカ故ニ航空勤務者ノ例ニ倣ヒ特ニ手当支給ノ制ヲ設ケ以テ其ノ発達奨励ニ資スルノ必要アルニヨル化学兵器二関スル研究ノ為、其ノ試験、製造、検査及取扱ニ従事シ直接其ノ危害ヲ受クル虞アル陸海軍軍人、軍属ニハ所定ノ化学兵器手當ヲ給スルコトニ定ム

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大正十四年十一月十六目陸達第四二號
化学兵器手當支給規則
一、陸車軍人軍属並嘱託者、雇員、傭人及職エニシテ化学兵器二関スル研究ノ為其ノ試験、製造、検査並取扱ニ従事シ直接其ノ危害ヲ受クル虞アルモノニハ所定ノ化学兵器手當ヲ給ス
二、本規則ヲ適用スヘキ化学兵器ノ範囲ハ別ニ之ヲ定ム
三、化学兵器手當ノ月額ハ同一部隊ニ於テー月ニ且リテ第一號ノ業務二従事シタル者二之ヲ給ス
四~六、(略)
七、化学兵器手當ハ所属長ノ証明ニヨリ毎月下旬俸給又ハ給料支給ノ定日二之ヲ給スルヲ例トス
八、(略)
九、本達ハ大正十四年五月一日以降ノ給興ニ付之ヲ適用ス

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当時、化学兵器の研究は航空勤務者と同様、思わぬ過失で生命を失なう危険があると考えられて いたので、研究員の安全を保障するような十分な安全措置がとられたが、同時に万一の事態に備え、 後顧の憂いなく研究に専念できるよう特別の優遇措置がとられた。
化学兵器手当、殉職者等に対する一時賜金、及ぴ不健康業務としての恩給加算がこれである。
化学兵器手当は常勤の研究員に対し毎月定額を、非常勤者に対しては勤務日数に応じた日定額を支 給するもので、大正14年5月1日(第三部昇格の日)以降に適用された。
これらの一連の優遇措置が研究員に安心感を与え、研究意欲を盛り立てるのに役立ったことは言うまでもない。
このうち、化学兵器手当は技師、技手等の採用に当り、民間企業との競争上有利な立場をとり得 たが、反面、同一研究所内の他の部署の者の羨望の的となり、しかも、実験に当っては十分な安全 措置を講じたこともあって犠牲者が殆んどなかっ
たことと合わせて、次第に怨瑳の声となっていったことも止むを得ないことであった。

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大正十四年十一月十六日
陸普第四四二一號

一、化学兵器ト称スルハ塩素系、臭素系、砒素系、青酸系等ノ毒物ヨリ生スル瓦斯体又ハ蒸気体ノ軍用毒物ヲ言フ
二、化学兵器手當ハ陸軍科学研究所、睦軍軍医学校又ハ陸軍獣医学校二於テ勤務スル者二限り之ヲ給ス

 

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大正十四年十二月八日
化学兵器手當ノ件
次官ヨリ技術本部長、科学研究所長、軍医学校長、獣医学校長へ通牒

今般、化学兵器手當支給規則発布相成候ところ、ご元来、本手當ハ危険ヲ冒シツツ研究二従事スヘキ将校以下ニ対シ優遇ノ途ヲ講シ、其ノ研究心ヲ旺盛ナラシムル目的ヲ以テ支給セラルルモノニ候間、此ノ種加俸手當等支給ノ意義ヲ稽ヘ、普遍的ニ流ルルコトナク、支給範囲及支給区分ヲ厳正シ、本目的ニ副フ如ク配慮相成度依命及通牒候也

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*********一時賜金制度関係法規**********

 

昭和二年六月八日
 勅令一六四号

化学兵器ニ関スル研究ノタメ研究ノ為其ノ試験、製造、検査及検査及取取扱二従事スル者ニ時賜金ヲ給与スルノ件(抜すい)

第一條化学兵器二関スル研究ノ為其ノ試験、製造、検査及取扱ニ従事シ直接其ノ危害ヲ受クル虞アル陸海軍軍人、軍属、嘱託者及職工力自己ノ重大ナル過失二因ルニ非スシテ該勤務二従事中之力為死歿シ又ハ傷疾ヲ受ケ若ハ中毒症二罹リ不具廃疾ト為リタルトキハ本令二依リ一時賜金ヲ給ス該傷療又ハ中毒症ニ因リ三年以内二死歿シタル者不具廃疾ノ為一時賜金ヲ受ケサルトキ亦同シ
前項ノー時賜金ノ金額ハ大正二年勅令第九號別表
二定ノタル金額トス
第三條本令ヲ適用スヘキ化学兵器ノ範囲ハ主務大臣之ヲ定ム

付則
本令ハ昭和二年六月一日以降ノ給与二付之ヲ適用ス
注、大正二年勅令第九號とは「軍用航空機二乗シ航空演習従事者ニ一時賜金給与ノ件」をいい、別表に死亡一時賜金( 例、大佐七千円、大尉四千円、少尉二千円、軍曹千四百円、上等兵千円、ニ等卒八百円)、不具廃疾者一時賜金を定めている。

 

研究員の長期勤務


科研の所員の階級は中尉から大佐までとし、一般の部隊のように進級によって新たな職務に転ず ることなく引続いて研究に従事しうるよう人事上の施策がとられた。これにより長期間にわたる研 究に当り、転任等にわずらわされることをく専念することができ、中には二十余年の永年連続勤務者もあった。

独人メッチナー博士の指導


わが国における化学兵器の研究は外国文献の調査から始まったが、実際の化学戦の様相について はもとより体験した者がなく、僅かに海外に派遣された者がその一端を知るのみであり、化学兵器 の製造、運用、防護等については幾多の難関があった。
このため、これらに通暁した外国人技師を招聘して研究の指導に当らせることとし、化学戦については数歩の長があるドイツからワルター・メ ッチナー博士を招くことになった。(俸給月額二千円)。「メ」博士はフリッツ・ハーバー博士(ノー ベル化学賞受賞)の高弟でドイツにおける有数の化学専攻の学者である。大戦間はベルリンのカイザ -・ウイルヘルム研究所で一酸化炭素吸収剤の研究、敵の瓦斯防護資材の性能分析、化学戦技術情
報の調査等に従事し、また、ホスゲンの放射、射撃等、数多くの野外実験に参画しており、加えて 親日的な人格者で正に適材であった。大正14年11月1目から昭和2年10月未までの満二年間、 科研において瓦斯の効力試験法、検知の手段、瓦斯弾の設計、防毒面の設計、化学戦運用、瓦斯防 護等各般にわたりうん蓄を傾けて指導に当り、「メッチナー氏ノ来朝ハ暗夜ニ燈火ヲ得タルカ如グ化 学兵器ノ研究二対シ確固タル指針ヲ興へタルト共二析ニ触レ事二富リ明快ナル判決ヲ興へア当所従業員ヲ裨益セシコト少カラサルモノアリ」(功績調書) との評価を得、彼の帰国に際しては技術本部長から陸軍大臣に「陸軍大臣の招宴と記念品贈呈」方 を上申されるほどであった。その後、わが国の化学戦装備がドイツ流になったのは「メ」氏の影響によるところが大きい

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恩給加算制度関係法規
恩給法(抜粋)
大正十二年四月十四目法律第四十八號

第三十八條
公務員其ノ職務ヲ以テ邊陬又ハ不健康ノ地域二引続キー年以上在勤シタルトキハ共ノ期間ノー月ニツキー月以内ヲ加算ス不健康ナル業務二引続キー年以上服務シタルト者亦同シ 前項ノ地域相互間ノ転勤ハ之ヲ引続キタル在勤ト看做ス第一項ノ地域及業務ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

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大正十二年八月十七日
勅令
恩給法施行令

第十七條恩給法第三十八條ノ規定二依ル不健康業務ノ加算ハ一月ニ付半月トス其ノ業務左ノ如シ
一、有毒ノ瓦斯若ハ蒸気、爆薬類又ハ危険ナル細菌ノ研究又ハ製造二直接二従事スル勤務シテ内閣総理大臣ノ指定スルモノ

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大正十一二年四月二十六日内閣告示第二號


恩給法施行令第十七條第一項第一號二規定スル勤務左ノ通定メ恩給法施行ノ日以後ノ勤務二付適用ス

一、左ノ場所二於テ有毒ノ瓦斯若ハ蒸気又ハ爆薬類ノ研究又ハ製造二直接従事スル勤務
陸軍造兵廠
睦軍科学研究所
陸軍火薬廠
陸軍軍医学校・…毒性化合物ノ研究室
陸軍獣医学校……毒性化合物ノ研究室
海軍技術研究所
海軍軍医学校


毒瓦斯研究委員会

化学兵器の本格的研究が開始ざれてから間もない大正15年、参謀本部内に「毒瓦斯研究委員会」 が組織され、陸軍として化学戦に関しとるべき一般的構想が研究された。その詳細についてはわか らないが、翌2年から開始ざれた化学戦教育(科研
で実施した)や、化学兵器製造施設などについても検討されたものと思われる。本委員会は昭和2年 一応終了したが、その後、昭和4年発足の「化学戦研究会」に引継がれた。

化学戦研究会

昭和4年6月21日、参謀本部内に参謀次長を委員長とする「化学戦研究会」が設置された。 この研究会は中央三官衙(陸軍省、参謀本部、教育総監部)のほか、科研及ぴ軍医学校の代表者を加え、委員23名、幹事24名からなり、化学兵器の用法と防護法、及ぴ平戦両峙にわたる編制装備、施設等が研究された。その中には化学戦関係の教育、研 究機関(陸軍習志野学校)の創設についても含まれ
ていたものと思われる。

 

 

 

 

九研編:化学兵器手当~不健康業務恩給     雑書綴より

 

化兵手當支給相成度件上申

昭和十七年三月二十六日   第二科長

作業ノ種類 現在日給額 手當
支給区分
身分 氏名
有毒性化合物ノ研究 2.240 甲 工員 増田  敏実
  1.600 甲 工員 長島  一雄
  1.400 甲 工員 各務  正次
  1.400 乙 工員 高橋 政一
  2.200 乙 工員 鈴木  嘉一

 

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化學兵器手當支給方認可相成度件上申

昭和十八年五月二十四日

第二科長 陸軍大佐 畑尾 正央

所長 篠田 鐐 殿

左記ノ者當科ニ於テ研究上危險竝ニ有害作業ニ従事セルニ付化學兵器手當支給ニ依リ該手當支給認可相成度上申ス

 

 

官氏名 支給区分   官氏名 支給区分   官氏名 支給区分
陸軍軍医少佐
 久葉   昇
甲 額   陸軍技手
朝山      晃
甲 額   工員
 高橋 政一
乙 額
陸軍兵技大尉
 伴   繁雄
乙 額   陸軍技手
 荒井   元孝
甲 額   工員
 武田  正男
乙 額
陸軍兵技大尉
 村上  忠雄
乙 額   嘱託
 川島   秀雄
日 額   工員
 栗山  一男
乙 額
陸軍薬剤大尉
 瀧塚  句郎
乙 額   雇員
 島倉 栄太郎
乙 額   工員
 増田  敏実
甲 額
陸軍兵技中尉
 長谷  倫夫
乙 額   雇員
 千田   博
乙 額   工員
 各務  正次
甲 額
陸軍兵技中尉
 瀧脇  重信
乙 額   雇員
 荻野  辰夫
乙 額   工員
 荒谷  春吉
甲 額
陸軍兵技小尉
 小堀  文雄
乙 額   雇員
 中島  武利
乙 額   工員
 松岡  保夫
甲 額
陸軍兵技小尉
 今井 利雄
乙 額   雇員
 緒方  末吉
乙 額   工員
 小島  博輔
乙 額
陸軍技師
 土方   博
乙 額   雇員
 鈴木  嘉一
乙 額   工員
 神垣  弘
乙 額
陸軍技師
 長谷川恒男
乙 額   雇員
 小川  利一
乙 額      

 

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事故の記録   雇員 鈴木嘉一の場合 1943年7月

証明書

鈴木 嘉一

右者昭和十七年一月入職以来「ホニ」号の研究ニ従事シ毒薬合成 中偶々気管支ヲ侵サレ其ノ都度治療ヲ受ケ居リシ所稍々快復シタ ルモ昭和十八年七月胃潰瘍症トナリ郷里千葉県ヘ帰郷静養中別紙診断 書ノ通リ更ニ肺侵潤ヲ併発シタルヲ以ッテ「ホニ」号合成研究ニ拠ル起因ナルコトヲ承認ス

昭和十八年七月 日 研究班長  陸軍技師  土方 博


冠省
御令息嘉一殿其後の御病状如何に候や御伺い申上げ候
あまりの長期間の休務に付只今の状況を知り度尚御相談致度儀有之候へば御繁忙中誠に恐縮に候へ共本月二十日頃小官宛御来所被下度御願ひ申上候

昭和十八年九月十四日 登戸研究所
陸軍兵技大尉  土方 博
鈴木 久蔵 殿


拝復
御芳書を賜り御鄭重なる御挨拶恐縮の至りに存候
其後御容体も少しずつ御快方への趣御喜び申上げ候
本病気は気長を必要とし一意専心御養生然るべしと存じ候間
専心俗念を離れ御療養の上再度元気なる御壮容に接すること
を鶴首致し居る次第に御座候
 先者御見舞い並びに一日も速に御快癒念願迄斯御座候

十月ニ十日 第二科長
  山田 櫻

 

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科内巡視所見 第二科長 山田櫻大佐

新たに着任した山田櫻大佐は、「科内巡視所見」第二科長昭和18年( 1943)8月19日附で、「着任後初メテ一般ヲ巡視シ班長以下各員カ熱誠以テ研究ニ邁進シ、、努力ハ多トスルモ、、訓練ヲ周到ナラシムルノ切ナルモノアリ」としました。
その後に命じた「科達」第二科長昭和18年( 1943)8月30日附でも、
「実験室内ニオケル規律の確立ハ研究ノ士気、統率、能率ノ増進及災害防止上極メテ緊要ナリ。班長及ビ研究主任者ハ指導的立場ニオイテ之カ真諦ヲ把握シ研究軍紀ノ徹底ニ一段ト努力ヲ傾注以ッテ下級者ノ躾改善ニ資スルヲ要ス」とし、「陸軍禮式令」「軍隊内務書」の抜粋を科内に配布しています。
これは、「現時局ノ緊迫化愈々切ナルヲ深ク認識シ」(「科内巡視所見」)という決戦状況に至る状況のならしむるものでした。

 

この「科内巡視所見」に別紙添付された「細部注意事項一覧表」には、

防空資材ノ整備案ヲ作成提出ノコト
防空壕ノ使用方式並責任者ヲ決定シ退避訓練ヲ実施スルヲ要ス
燈管(燈火管制)用窓枠ノ不備ナルモノアリ
常時大量ニ砂ヲ保有スル如ク砂置場ヲ設置シ災害時ニオケル防火砂ノ消耗ニ備フルヲ可トス
などの防空対策が細部まで大きく取り上げられています。

また、実験の危害防止のために
化兵取扱者ニシテ防毒面ヲ所有セサル者アリ、整備ヲ要ス
化兵ヲ収容セル容器ニハ規定ノ化兵標識ヲ貼付スルヲ要ス
危険薬品ヲ大量ニ室内ニ停滞セシムルコト無ク、所属班別ヲ明記ノ上関係者ニ保管ヲ依頼スルコトヲ可トス
とし、危険火災予防、整備を注意しました

 

この「細部注意事項一覧表」には

化兵手當ハ可及的之ヲ貯蓄ニ振向クル如ク指導スルヲ要ス

と記載され、当時の化兵手當に対する意識をうかがわせている 興味深い記述があります。

 

 

 

 

 

習校編:化学兵器手当~不健康業務恩給&(付)相馬が原演習事故1934/5/17

階級

月 額(甲)

月 額(乙)

日 額

将 校、同担当官 、高等文官、 同待遇者

二 十五円

二 十円

三 円

准 士官、判任文官一等

二 十円

十 二円

二 円

下 士官、判任文官二等 以下判任文官待遇者

十 円八十銭

七 円五十六銭

一 円五十銭

兵、 傭人、職工

三 円八十銭

二 円六十六銭

一 円

 

習校編:化学兵器手当~不健康業務恩給

陸軍習志野学校1982/1/16編纂委員会刊より

化学兵器手当(化兵手当)支給

 

化学兵器手当(化兵手当)支給の制度は、大正14年11月14日の「化学兵器手当支給二関スル件」(勅令第一四号)、同年11月16日の「化学兵器手当支 給規則」(陸達第四二号)及ぴ「化学兵器ノ範囲二関スル件」(睦普第四四二一号)に基づいて、同年5月1日に遡及して施行され、科研、軍医学校及ぴ獣医学 校の間係者に支給されていたが、習志野学校についても昭和9年3月31日の達(陸密第二一九号)によって、昭和9年3月l日以降適用されることになった。

この手当は、習志野学校における実毒の研究、取扱、又は実毒を使用する演習に従事した関係者には、将校、准士官、下士官、兵、雇員、傭人及ぴ学生の区別な く支給され(習志野学校以外からの演習参加者にも支給された)、その後、終戦時まで続けられた(昭和20年11月30日廃止)。

支給額は「月額」と「日額」に分けられ、研究部と練習隊には月額を適用、本部、教育部(学生を含む)、研究部の一部及ぴ他部隊等からの演習参加者には日額 を適用した。これは「常時の勤務者」には月額、「常時の勤務に非ざる者」には日額を適用する主旨によって、このように区分されたのである。

日額の場合は化学兵器手当支給規則別表の定額をそのまま支給したが、月額の場合は定額を減じた制限額を支給した。制限額の程度は下士宮、兵の場合、平時給 与額(俸給、給料)の六割増程度になるようにした。その理由は月額を定額どおり支給するとかなりの 高額にな るため、支給額を戦地 の戦時給与額以下に抑えるという配慮や予算全般の都合から制限を加えたものである。
また、月額(制限額)は勤務の実態に応じて、更 に「甲額」と「乙額」に区分されており、乙額は甲額の七割の額とした。しかし、それでもなお、上等兵の場合月額甲額は三円八十銭(給料六円四十銭)、軍曹 (二等給)の場合月額甲額は十円八十銭(給与は十八円)となり、当時の給与水準や物価からみて相当な高額であった。将校の場合も同様の主旨で制限額が走め られた。昭和9年度の習志野学校の化兵手当の総額は二万五千円である(学校以外の演習参加部隊の分を含む)。

甲額、乙額は実毒の取扱や演習に従事した日数によって区分した。

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陸密第二六九号
化学兵器手当定額減額ノ件回答
昭和九年三月三十一日陸軍大臣林銑十郎
教育総監真崎甚三郎殿
三月三十一日付教密第四三七号照会首題ノ件異存ナシ

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教密第四三六号
昭和九年四月二十日
         教育総監部庶務課長廿粕重太郎
陸軍省副官牛島満殿

陸軍習志野学校化学兵器手当支給規則適用二関スル内規別紙ノ通通牒ス

陸軍習志野学校化学兵器手当支給規則適用二関スル内規
第一条本校二於テ化学兵器手当支給規則(以下規則ト略称ス)第一条ノ業務二従事スル左記職員以下ニハ月額ヲ支給ス但甲額及乙額ノ何レヲ支給スヘキヤハ実際 従事シタル日数二応シ規則別表備考第二号ニョル
一、校長及幹事(但シ当分ノ間特二別二定ムル所ニヨル)
二、研究部二在リテ直接研究二従事スル将校同相当官(研究部主事、本校二職ヲ有スル研究部員、技師、准仕官、下士官、技手
三、練習隊長、練習隊付将校、准士官、下士官、分遣下士官、兵
第二条 前条以外ノ職員以下二対シテハ実際毒物ヲ便用シタル場合及毒物ヲ使用スル演習二従事シタル場合
第三条 他ノ官衙学校二本職ヲ有スル本校研究部兼務部員ハ規則別表備考第一号第二項ニ示ス兼務者トシ実際従事シタル日数二応シ日額ヲ給ス
前項ノ研究部兼務職員ニシテ他ノ官衙学校ニ於イテ化学兵器手当ノ支給ヲ受クルモノニ対シテハ之ヲ給セス
第四条本校二於ケル学生ニハ実際毒物ヲ使用スル演習二従事シタル日数二応シ日額ヲ給ス
第五条本校二於ケル研究試験二参加シタル他ノ学校軍隊ノ将校以下シテ毒物ノ取扱及毒物ヲ用フル演習二従事シタル者ニハ実際従事シタル日数二応シ日額ヲ給ス    
化兵手当支給に関する通達等は次のと おりである。

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陸密ニ一九号
昭和九年三月三十一日
陸軍習志野学校長宛達(教青総監部経由)
化学兵器手当支給二関スル件

陸軍習志野学校二於テ勤務スル者ニハ昭和九年三月一日以降大正十四年陸達第四十二号化学兵器手当支給規則二依り化学兵器手当ヲ支給ス但シ其ノ定額ハ学校長 二於テ必要ト認ムルトキハ睦軍大臣ノ認可ヲ受ケテ之ヲ減少スルコトヲ得
追而化学兵器ノ範囲ハ大正十四年陸普第四四二一号二依ル儀ト心得ベシ

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教密第四三七号
化学兵器手当定額減額ノ件照会
   昭和九年三月三十一日教育総監真崎甚三郎
陸軍大臣林銑十郎殿

陸軍習志野学校二於テ支給スル化学兵器手当別表定額ノ通減額致度三月一二十一日付睦密第二一九号二依り照会ス

別表陸軍習志野学校化学兵器手当定額表
備考 本表ハ化学兵器手当支給規則別表ノ給額表二
相当スルモノシテ同表備考ハ本定額支給ニ
関シ其まま適用スルモノトス
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▼習志野学校化学兵器手当定額決定理由
当校職員以下ノ化学兵器取扱二関スル危険度ハ現行化学兵器手当支給規則中ノ適用ヲ受クル何人二比スルモ亳モ差別ヲ認ムヘキニアラスト信スルモ内地部隊二在 ル者シテ戦地二在リテ戦時給与ヲ受クル者以上ノ手当ヲ受クルコトハ精神上忍ヒサル所ナルト一方予算ノ制限ヲ受ケ化学兵器手当支給規則別表二示ス定額ヲ支給 スル能ハサルヲ以テ左ノ主義二基キ制限額ヲ決定セリ
一、下士官兵月額下士官兵ハ在戦地戦時給与二準シ平時給与額ノ六割増ヲ標準トシ兵(上等兵トシ)二於テ三円入十銭、下士官(軍曹二等給トシ)二於テ十円八 十銭ヲ月額甲額トセリ
 月額乙額ハ同甲額ノ七割ト定メクリ是レ危害ノ発生ハ必スシモ常二回数ニ正比例スルモノニアラサルト練習隊二於ケル毒物使用ハ多クモ月十日内外ト見倣シ得 ヘク而シテ下士官兵ハ勤務其他ノ関係ニヨリー月以内二於テー日ノ差ヲ以テ手当支給ニ甲、乙ノ差ヲ生スルコトアリ斯ル事情二依リテ甲、乙両額二甚シキ差異ヲ 付スルハ統御上面白カラス依リテ規期ノ精神ニモトラサル範囲二於テ其差ヲ緩和セシメタリ

二、将校同相当官、高等文官、准士官
予算ノ許ス範囲二於テ化学兵器手当支給規則ノ精神二基キ決定セリ
三、日額

臨時命ヲ受ケテ研究業務二従事スル者二支給スルモノナルヲ以ッテ規則ノ定額ヲ制限スルコトナシ
四、平年度化学兵器手当使用計画

本制制限ヲ以テ現在ノ平時定員ニ対シ手当支給ヲ計画セハ別表ノ如ク令達予定額二万五千円中約二万円ヲ当校職員以下二支給シ残余約五千円ヲ当校二於テ実施ス ル実毒演習二参加スル校外部隊二充当シ得ヘシ


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不健康業務恩給加算制度の適用


化学兵器(毒性化合物)の研究、取扱業務を不健康業務に指定して、この業務に従事した期間を特別に通常の恩給期間に加算する制度、即ち、恩給法(大正12 年4月14日、法律第四八号)第三十八条の「不健康業務加算制度」は、恩給法施行令(大正12年8月17日、勅令)及ぴ大正13年4月26日、内閣告示第 二号ノ第一号未項に基づき、既に科研、軍医学校及ぴ獣医学校等の関係者に適用されていたが、習志野学校についても昭和9年6月30日に内閣恩給局長の指定 を受け、同年6月以降適用されることとなった。
これは不健康業務従事期間一月につき一月以内を加算するもので、このため該当者は毎月、「不健康業務加算勤務日誌」を記録し加算期間算定の資料とした。 (引用例では一月につき半月加算である。

この制度は化学兵器手当とは異なり、終戦によって廃止されることなく、現在でも適用されている。


なお、習志野学校に本制度を適用するための内閣恩給局長宛の照会文書(昭9・6・1、陸密312号)は、昭和9年5月31日に陸軍恩賞課で起案提出され、 兵務課長、人事局長、兵務局長を経由して、翌6月1日には次官決裁を済ますという異例のスピード処理であるが、 これは同年5月17日の相馬が原の 演習事故がこのように部内の手続きを急がせたのではないかとも考えられる。(本演習は、事前に新聞記事差し止めの措置がとられている)

(註)相馬が原演習事故1934/5/17


はじめての国産試製瓦斯<びらん瓦斯=イペリット、ルイサイト混合>の毒効力戦況演習。

 

①車撒撒毒②撒毒地域強行突破演習に分かれ、教導隊二百名を中央部許可のもとに計画。

事故経緯


①車撒撒毒~小隊長和田盛哉歩兵中隊長:習校練習隊附、教育総監部課員、警察予備隊、第二師団長、西部方面総監)、分隊長新藤進伍長、操縦手大畠上等兵、 標示兵村田上等兵が、当日午後に症状を自覚、発症。村田上等兵は6日後死亡(死後伍長に進級)。和田中尉と新藤伍長は奇跡的に危機を脱し、数ヶ月の治療後 復帰。 撒毒時に軽装甲車と撒毒車の連結部分故障のため、装面を脱いで作業をしたもの。

②撒毒地域強行突破演習。i 第一小隊<90式防毒衣で全身防毒> ⅱ 第二小隊<薄いゴム製で半防護> ⅲ 第三小隊<防毒面と防毒手袋のみ簡易防御> で、各隊5名に分かれ撒毒後30分に各人一動一止、躍進&停止&射撃、200m縦深で15分間動作
③撒毒後、防毒衣を脱し、風上で休息していた部隊が、風向変化により風下になったの気がつくのが遅れたもの
計今村均、研究部新妻雄騎兵大佐、同明石泰二郎少佐など将校5名、下士官10名、兵18名を出す。

(東一陸軍病院、軍医学校「今度の患者数は、言葉は失礼 でありますが、学校としては治療の研究上尊い資料であります)

なお、昭和16年6月28日陸密182号により下記の部隊も不健康業務恩給を適用することとなった。
これらの部隊で化学兵器(毒性化合物)の取扱業務(訓練)に従事した期間を特別に恩給期間に加算するものであった。
一 
迫撃第一連隊(迫撃大隊を除く)
特殊自動車第一連隊(瓦斯第三連隊)
ロ連隊瓦斯大隊
歩兵52連隊瓦斯大隊
師団制毒訓練所
仙台、旭川、羅南、京城各師団
第1、8ないし12、14、16、23乃至25、28各師団
陸軍公主嶺制毒教導隊
関東軍制毒教導隊
以上昭和16年4月1日

(註)迫撃第一連隊:15.4.1基幹63D島根63iで新設。S16.10群馬県沼田移駐。連隊本部、第一大隊(迫撃三個中隊)、第二大隊(瓦斯二個中 隊)、材料廠計1055名。
特殊自動車第一連隊(瓦斯第三大隊)S15.3.9フラルギ(チチハル西南方30Km)で新設。連隊本部、瓦斯大隊(瓦斯二個中隊)、材料廠。S16.8 関特演に際し瓦斯第三大隊(瓦斯二個中隊、材料廠)に改編。さらにS17.10関東軍化学部練習隊新設に際し、同練習隊第二大隊に改編。

ニ
ロ連隊瓦斯大隊
歩兵135連隊瓦斯大隊
歩兵42連隊瓦斯大隊
以上昭和16年6月20日

 

 

今村均、新妻雄、明石泰二郎・・著名な人物の伝記には、どのように記載されているか。

*******************


陸軍給与令


昭10.7.1現在          
大将    6,600    以下年額
中将    5,800     
少将    5,000     
大佐    4,150     
中佐    3,220     
少佐    2,330     
大尉一等    1,900     
大尉二等    1,650    
大尉三等    1,470     
中尉一等    1,130     
中尉二等    1,020     
少尉    850     
准士官一等    960     
准士官二等    900     
曹長一等    39.5      以下月額
曹長二等    34.5     
曹長三等    30     
軍曹一等    22.5     
軍曹二等    18     
軍曹三等    15     
軍曹四等    13.5     
伍長一等    10.5     
伍長二等    9     
伍長勤務上等兵    7     
上等兵    6.4    
一、二等兵    5.5     

************************
化学兵器手当については、


元 七三一部隊員・篠塚良雄氏『第 1回 中国戦跡を訪ねる平和の旅記録集』(1998年発行) (1997年8月22日夜、北京・天橋賓館にて)の講演をご参照ください。

不健康業務恩給加算については、不明。
所轄官庁は厚生省?であることは間違いなく、この受給者数、支給明細がわかれば、総体としての化学戦の大枠がつかめるであろう。


陸軍給与令
昭10.7.1現在          
大将    6,600    以下年額
中将    5,800     
少将    5,000     
大佐    4,150     
中佐    3,220     
少佐    2,330     
大尉一等    1,900     
大尉二等    1,650    
大尉三等    1,470     
中尉一等    1,130     
中尉二等    1,020     
少尉    850     
准士官一等    960     
准士官二等    900     
曹長一等    39.5      以下月額
曹長二等    34.5     
曹長三等    30     
軍曹一等    22.5     
軍曹二等    18     
軍曹三等    15     
軍曹四等    13.5     
伍長一等    10.5     
伍長二等    9     
伍長勤務上等兵    7     
上等兵    6.4    
一、二等兵    5.5     

 

特設憲兵隊(86部隊)の創設

全国憲友会連連合会編纂委員会 日本憲兵正史
 

(無線諜者検挙第一号)

昭和十三年三月、関東憲兵隊司令部は憲兵に特別無線教育を実施するため、新京の関東憲兵隊教習所に、隷下各隊から十名、朝鮮軍から二名、北支那方面軍から 二名、計十四名を集めて教育した。教習所所長は宇野恒雄憲兵少佐であった。
教育期間は約一力月であったが、満州国交通部無線技官の松井義正が開発した方向無線探知機を使って、無線探査の教育を実施した。教育終了時に、憲兵全員に EX三○の真空管と乾電池を便って、教育を加味した無線探知機をつくらせた。
 
教育を受けた者は、何らかの形で無線に関係のある憲兵であった。たとえば、ハルピン憲兵隊から派遣された大庭軍曹は、アマチュア無線の経験者であった。あ とは逓信省とか郵便局、または電機メーカーにつとめたこと
のある憲兵ばかりであった。
さて、関東憲兵隊司令部が、なぜ無線教習所を新設した
か、それには次の事情があった。
 
ソ満国境の事件は、何も戦略兵団の出動する大きな紛争事件ばかりではない。国境を越えてひそかに侵入する諜者の数も軽視できなかった。ところが、謀者を捕 えてみるとドイツ製や米国製の優秀な携帯無線を持っていた。いわゆる無線諜者である。しかし、憲兵には無線がラジオか短波かさえもわからない。これでは困 るということになって、まず、憲兵に無線の知識を普及させようと、十四名の憲兵教育になったわけである。また、これまで憲兵は捜査に見込捜査ばかりで、科 学的な捜査は行われていなかった。この面でも、ようやく科学捜査を重視するようになったことになる。こう書いてくると、いかにも憲兵首脳が科学に理解が あったようにみえるが、必ずしもそうではなかった。
 
熱心だったのは宇野少佐ぐらいだったかも知れない。
 
一方、教育を終えた憲兵は原隊復帰したが、ハルビンは満州でも最も謀略諜報の行われていた地域だったので、宇野少佐はハルピン憲兵隊に、特に無線探査の普及教育を命じたのであった。
ハルピン憲兵隊で隊員の無線教育に当たったのが大庭軍曹で、自ら防諜班長となって基礎教育が終ると、班員を街頭で実地教育した。
「街を歩くときは慢然と歩かず、アンテナに注意しろ。アンテナ見たら、夜は使っているのではないかと考えてみろ」といった具合であった。
 

昭和十四年五月、第一次ノモソハン事件が勃発、

六月に第一次ノモンハン事件となって拡大した。このときに憲兵隊司令部はハイラル、ハロンアルシャン、ソロン、三爺廟の四力所に、無線探査班を出動させ、 ソ連無線諜者の探知に当たった。ハロンアルシャンには大庭軍曹班、ソロンには細越曹長斑というように、各六名編成であった。
また、ハイラルでは川口武男憲兵曹長の指揮する川口班の無線探査の活躍で、ハイラル市街の雑貨店主ほか六名をソ連諜者として検挙した。家宅捜査すると、果 たして床下から無線機と暗号書が発見され、この諜者はソ連のチタ指令局と交信していたことが判明した。したがって、ソ連軍はこの無線連絡によって、ハイラ ルを中心とする関東軍の動向を、かなり諜報していたことが歴然とした。しかも、この男は表面では、かつて関東軍に多額の国防献金をして、表彰状までもらっ ていた親日派漢人であった。これにはハイラル憲兵隊も驚いた。
 
当峙、ノモソハン事件で小松原兵団が苦戦を強いられたとき、日本軍の軍事情報がソ連側へ流れていることを探知したハイラル憲兵隊は、無線探査班の出動を要 請したのである。川口班の岡野実一軍曹は、ハイラル市内の無線諜者を探索するために軍靴の底に銅線を張ってアースとし、小さな鉱石ラジオを耳につけて容疑 電波を追ったのである。
 
 ハイラルのソ連諜者検挙は、無線探査班の無線諜者検挙第一号であるとともに、関東軍の参謀連中に相当な衝撃を与えたといわれる。司令部の暮僚は、これまで 無線探査に無関心同様であったが、あらためて無線探査の威力を思い知らされたのであった。ここにおいて、前年、宇野少佐が実施した一力月の無線教育がよう やく生きたわけである。関東憲兵隊司令部は、これを機会に関東軍司令部と協議のうえ、これからは憲兵にも無線以外に幅広い科学知識を与えて、従来の見込捜 査でなく、科学的捜査によって、防
諜ならびに犯罪捜査に貢献させようと、特設憲兵隊の創設となったのである。したがって、ハイラルのソ連謀者逮捕は、憲兵史を書き替えるほどの重要な事件と なったことになる。いずれにしても、この特設憲兵隊が大東亜戦争において、全作戦地域にわたって大活躍をすることになる。
 

(特設憲兵隊の創設)

満州事変以降、国内においても防諜意識は除々に向上しつつあったが、敵国の諜報謀略は年毎に科学的となって、日新月歩、その進歩は著しいものがあった。そ こでこれらの諜報謀略に対応すべく、昭和十二年官制の改正により、兵務局が 防諜に関する事項を掌握することになった。その主な業務は、科学外諜、防衛並びに細菌戦等の研究訓練である。

(細菌戦部隊と憲兵隊)

細菌戦研究部隊は、後に満州国ハルピン市郊外平坊に移動し、関東軍防疫給氷部(通称部隊名を石井部隊と呼称)として、実戦に備え極秘に研究訓練を行ってい た。
 
ハルピン憲兵隊では防諜並びに軍事機密の保護と漏洩防止のため、坂本喜三郎憲兵准尉以下数名を石井部隊に派遣し、教育訓練に支障のないよう防諜に協力し た。
戦争には武力戦と秘密戦とがある。武力戦は一般軍隊が行い、秘密戦は憲兵、特務機関並びに特殊部隊がその任に当たる。秘密戦とは、謀報謀略を意味し、その 手段方法は、精到な教育訓練を終了した工作員を敵地に侵入させ、指令に基づく任務を、厳重な警戒取締網を巧みに遁れながら、秘密裡にかつ大胆に行動して指命を達成しなければならない。
満州はソ連及び外蒙に隣接しているため、欧州方面よりシベリヤ鉄道を経て(満州里にて乗り換え)満州、朝鮮をを経由して、日本へ旅行する唯一の国際列車の 通過で、治外法権をもつ外交官、駐在武官、クリエル(伝書使)の利用者が多く、また、一般旅行者についても、地帯を旅行する者には、警察官庁の発行する旅行証明書または身分証明書を所持しない者は、移動、旅行は できないという厳しい取締りを強化していた。これは秘密戦に備え、敵の諜報謀略員の潜入を防ぐためで、国際列車ならびに一般旅客列車には制私服憲兵が警乗 し、防諜に任ずるほか、容疑者に対しては厳しく偵諜し、最寄りの憲兵に引継いだ。
 
一方、国境各隊においては、ソ連より国境を渡河して侵入する工作員、あるいは現住民の連行、境界標移動等に対し、間道対策を強化して防諜に重点を指向して いた。ことに満ソ国境の東部正面、西部正面、北部の正面におけるソ連極東軍の領空侵犯は次第にその数を増し、ついには大規模な国境紛争が行われたのである。その主要紛争は、昭和十二年六月に北部正面に起こった乾含 子島事件、同十三年七月に東南部正面で発生した張鼓峰事件、同十四年に外豪正面に起きたノモンハン事件は、張鼓峰事件とともに
最も大規模な事件であり、関東軍は多くの犠牲者を出したが、が、これらの事件は紛争ではなく、慎重な計画のもとに仕掛けられた、戦争であるといっても過言 ではない。その原因となるものは、国際外交が火花を散らすその背後で、各強大国の政戦略が巧妙に交錯して、自国の安定と利益を図る侵略的欲望にほかならな い。しかも、当時の国際間において、この政戦略的謀略に最もすぐれていたのがソ連であった、ノモンハン事件はその最もよい例である。

(特設憲兵隊と科学捜査)

昭和十四年八月一日、ノモンハン事件の最中、関東憲兵隊 に特設憲兵隊が創設された。創立の趣旨は敵性諜報謀略に備え、無線探査と科学捜査、鑑識によって原因を糾明し、あるいは検挙した諜報謀略員を培養して敵の企図を諜報し、軍の作戦行動を容易にするなど、その任務は時局柄極め て重要であった。
 
初代隊長は陸軍憲兵中佐山村義雄(31期)が任命され、部隊の本拠地を新京特別市寛城子東支鉄道管理跡(関東憲兵隊司令部より南方約四キロの地点)に設置 し、三力月間総合基礎訓練をしつつ、器材整備と実務訓練を開始し、共礎教育と技術の向上を図った。
 
当時の特設憲兵隊要員は、関東憲兵隊下より、科学部隊に適する憲兵准士官以下を選考推薦編成したのである。だが、無線関係を除き、科学に付いては殆ど素人 であるため斯界の学者を軍属教官として要請し、所要必須科目の科学教育を、初歩より専念修得させることにした。
 
主な学者は奉天医科大学毛利博士、新京医科大学橋本博士、名古屋医科大学小宮博士、新京大陸科学院より農学博士二名、現場写真および鑑識については、満州 国日系技官遊佐武治郎、写真学並びに一般写真は、満州航空の小坂信教、特殊カメラの操作を関東軍司令部兵技少佐中村一、映画撮影並びに映写技術については 満州国映画会社から、指紋については満州国冶安部指紋鑑識課の日系技官を、それぞれ軍属、嘱託教宮として招聘した。
 
教育は各分隊毎に基礎訓練から実務訓練に移行したのである。当初の教育訓練ぶりは、憲兵隊を脱してあたかも技術大学の観を呈し、受講
する憲兵は自分の年齢を忘れて懸命に勉強した。なかには中年に達した妻子ある憲兵も多かったが、科学部隊としての誇りと便命感に燃えて、よく学び苛酷な訓 練に耐えた。
三力月乃至六力月間の基礎訓練期間を終了した後は、いずれも優秀な学間、技術、鑑識眼を会得し、その進歩には嘱託教官も驚くほどであった。こうして、憲兵 による科学の総合威力を発揮する特設憲兵隊の要員が育成されたのであった。
 
他方、本部器材整備班長吉成道雄曹長と同班の斎藤正夫軍曹は、無電、法医、細菌、指紋、化学について、各分隊に必要な器材ならびに資材を、満州国はもちろ ん日本各地より集めた。当時、物資不足の折にもかかわらず、部隊の重要性を認めた軍中央部も協力を措しまず、短期間内に整備、教有訓練に支障のないように 配慮したのであった。
 
 
創立当峙の編成は次のとおりである。
 
昭和十四年八月一日(新京・寛城子)
特設憲兵隊隊長山村義雄中佐
副官印南武雄少尉
本部付滝山三男少佐
第一分隊長(無線探査)吉田文武大尉
第二分隊長(無線探査)喜岡安直大尉
第三分隊長(指紋)四宮祐二准尉
第四分隊長(法医・細菌)菅原三治郎少尉
第五分隊長(写真)(兼)官原三治郎少尉
第六分隊長(科学)亀井真清大尉
 
 
特設憲兵隊は以上のように六個分隊に編成され、それぞれ特種任務が与えられて、特別な教育、研究、訓練を行つてきた。その中で最も実戦的に活躍したのが、 第一分隊と第二分隊の無線探査である。先に、ハイラルの場合を例にとったが、後述の活躍は大東亜戦争全域にわたって、敵諜
者を探索して華々しい行動を示ずことになる。これも、すべて特設憲兵隊の第一分隊、第二分隊の出身者によって、さらに指導教育された後輩の活躍によるとこ ろが大きい。この意味からも、特設憲兵隊は憲兵史上最も宣視されるべき憲兵だったのである。そこで第一、第二の無線探査班は別項で述べているので、第三分 隊以下の内容を紹介しておく。
 
第三分隊(指紋担当)
万人不同と終生不変が指紋の特性である。わが国の指紋法は、明冶四十年、司法省では現行刑法に定められた再犯加重を行う場合、再犯者なることを何によって 証拠立てるのか、という点が問題になった。ところが、当時、ドイツの警察制度を視察研究して帰朝した平沼麒一郎(後の首相)の提案によって、昭和七年八月 十七日、司法省訓令で分類性を統一したが、これが日本において実施された統一指紋法である。すなわち、犯罪捜査および刑事裁判など、警察的に用いられる基 礎が確立した。そして憲兵司令部がこれに着目した。
 
一方、満州においては、満州事変後、すでに南満州鉄道株式会社が、労働者(主として満人苦力)の不正移動や賃金支払に当たり、誤払防止を目的に、日本にお ける指紋法をそのまま取入れて実施したのが、最初のことであった。
その後、満州国が独立、首都新京に指紋管理局が創設されたが、日本よ り多数の技術者を迎え、日本の指紋法に若干の修正を加えて実施したのが、満州国指紋法であった。
第三分隊(分隊長四宮祐二少尉)の任務は指紋の実用的処理および現場指杖の検出、採取の教育訓練であった。後にソ満国境全線および満州国主要都市におい て、住民および軍人、軍属の十指指紋を採取収集管理して、謀略防衛または各種犯罪の犯人割出しに利用されたことは、意外に知られていない。
 
 
第四分隊(法医・細菌)
第四分隊(分隊長菅原三治郎少尉)の任務は、法医学の修得と細菌戦に対処する研究および訓練であった。医学の教育訓練については、満州医科大学医学教室の 助教授泉正一、同助手照井二郎がこれに当たり、細菌につ
いては、細菌学教室橋本多計冶教授を委嘱、専門学校修得のため月問一週間程度の基礎訓練を実施した。また、関東憲兵隊司令部付小笠原軍医大尉の一般化学お よび基礎学の教育を修了した。さらに、昭和十五年二月には、満州医科大学に隊員全員を派遣、専門教育を受講させた。
 
同年五月には、ハルビソ郊外の平坊にある関東軍防疫給水部(第二七一部隊通称石井部隊)にも全員派遣し、基礎防疫学を修め、実戦に即した教育訓線を受け た。これらは軍人としての教育ばかりでなく、警察的鑑識並びに防諜に必要な防疫学を修得させたことになり、後の昭和十六年末に、満州第七三一部隊とともに、関東軍の科学戦部隊として重きをなすに至る。
研究成果としては、細菌戦に対する防衛対策、毒物検知、細菌の実体研究、毛髪による鑑別法などにみるべきものがある。
 
 
第五分隊(写真・筆跡鑑定)
第五分隊(分隊長管原三治郎少尉兼任)の任務は、司法、現場、防謀写真と筆跡鑑定であった。
当峙、満州航空株式会社は、関東軍の特種指定工場として、航空写真の撮影および地図作製を行っていた。その満州航空から小坂信教らが教官となり、写真学の 基礎、撮影、現像、焼付、引仲の初歩教育に当たった。
また、司法写真と鑑識には、満州国治安部分室第七課(写真)の遊佐武次郎を招聘した。教育は犯罪現場写真撮影(司法写真)の基本並びに、現場に遺留の指紋 撮影、顕徴鏡写真、赤外線フイルムによる望遠撮影、筆跡鑑定写真、印影真偽鑑定など、主として犯罪に基づく司法写真に重点
を指向した理論と、基礎並びに実務訓練をニカ月間実習させた。
 
最も異色だったのは超小型カメラと隠密尾行写真であった。関東軍司令 部第四課の中村兵枝少佐を教官として、過去における敵国の謀者が、諜報に使用した超小型カメラの研究は、特に実務的であった。
超小型カメラは、現在でも映画やテレビでよく見るチョッキのボタンにレンズを仕掛けたもの、ステッキにカメラを装置したもの、その他ライター型カメラ及び 写真分隊で考案試作した書籍に仕組まれた小型カメラは、まさにスパ
イ戦そのものの教育訓練であった。さらに小田原の富士フ イルムエ場で開発製造された赤外線フイルムの活用は、幅 広く研究訓練され、教育終了後、直ちに犯人の街頭連絡の 現場隠密撮影、立証などに利用された。写真については撮 影のほか現像、引伸し等あらゆる技術が可能なように、実 務的教育訓練を受けたのである。
 研究並びに実務的成果としては、関東憲兵隊隷下の重要 事件の記録写真撮影、暗黒下における赤外線利用による隠 密撮影法など、現在の技術氷準からみても勝るとも劣らぬ ものであった。
 

また、写真に関連して、印刷に関する基礎的学習も受け た。特に印刷物の活版、オフセットの見分け、宣伝謀略に 使用される伝単(宣伝ビラ)の紙質、印刷の区分等は、満 州航空印刷部の前田技師の指導によった。
(画像は、陸軍登戸研究所関連より)
 
 第六分隊(思想・物理・化学・電気)
第六分隊(分隊長亀井真清大尉)の任務は、思想対策お よび謀略対策、事件、事象に対する科学的究明、物理、化 学、電気に関する学修、教育、訓棟であった。 教官または講師には、満鉄大連中央科学研究所の綿貫博 士、満州大陸科学院の四方院長、丸山捨吉博士、吉村博 士、有馬博士、山崎枝官らが委嘱されて教育、研究、指導 に当たった。
 
教育研究内容は、この隊はまことにバラエテイーに富ん でいる。まず、秘密インクの連鎖的検出と処理方浅、封書 の開封技術と糊の研究、番犬、軍用犬に対する制犬処理、 無色、無臭、無味の睡眠薬、紙幣謀略にともなう鑑識作 業、容疑者の携行品の検査分析などであった。 この分隊は化学実験室、物理室、治金室、電気室にあら ゆる研究器材を整備し、幅広く研究、訓練を行っている。
 
 これが後に特設憲兵隊から分離されて、関東憲兵隊司令部科学偵諜斑(通 称司令部第四班)となる。
 
昭和十九年五月二十五日、関東憲兵隊の編成改正によ り、第三分隊以下第六分隊を関東憲兵隊司令部に吸収し、 その名称を関東憲兵隊司令部科学偵謀班とした。この編成 改正については、時の関東憲兵隊司令官三浦三郎中将の 極的な方針による。
 
また、無線探査班の第一、第二分隊は、同時に関東憲兵隊無線探査隊となった。さらに、昭和二十年八月一日の編成改正により科学偵諜班は、関東軍特別第一警 備隊司令部の編制内に入り、斑名は従来どおり科学偵諜斑(通称第四斑)として、新京特別市寛城子に置かれた。第一警備隊司令部は奉天に位置し、新京以南の 地域をその管轄下に置いた。また、関東憲兵無線探査隊も同峙に関東憲兵隊司令官の隷下を離れ、第一特別警備隊無線探査隊となった。ちなみに、第二特別警備 隊司令部は牡丹江に、第三特別警備隊司令部はチチハルに設置された。最後に関東軍第一特別警備
隊特設憲兵隊の編成を紹介しておきたい。
 
 
 特設憲兵隊無線探査班・科学偵諜班・編成表  昭20年8月1日 本部
(78名)
部隊長 憲兵中佐 松永光治
副官  憲兵少尉 林幸男
戦務課長憲兵中尉 雨宮初二郎
教育隊長憲兵少尉 西田晴夫
第一中隊
(113名)
中隊長 憲兵大尉 村井博
ハルビン派遺隊長 少尉 久保田捨己
大連派遺隊長 准尉 坪内 章一
奉天派遺隊長 少尉 神津幸久
東奉天分遺隊長曹長 村松休平
安東分遣隊長 曹長 柴崎慶三
 
第二中隊
(75名)
中隊長 憲兵大尉 宮崎末男
牡丹江派遺隊長 少尉 西原貞夫
佳木斯分遺隊長 軍曹 石田金一
延吉分遺隊長 曹長 張替次郎
 
第三中隊
(72名)
中隊長 憲兵中尉 木村欣一
チチハル派遺隊長 少尉 鷹羽秀三
ハイラル分遺隊長 曹長 山中一男
 科学偵諜班
(100名)
班長 憲兵大尉 長島恒雄
指紋 憲兵椎尉 矢口正
法医 憲兵准尉 山田弘
写真 憲兵少尉 村越清
化学 憲兵少尉 鎌田光次

(部隊の命運を賭けた捜査)

関東憲兵隊特設憲兵隊、通称八六部隊は、昭和十四年十月、第一回の研修生を送出すと、各憲兵隊から優秀な憲兵を指名で引抜いて、三年間の教育を実施してい た。これが各憲兵隊長の反感を買ったのはやむを得ない。ところが、各憲兵隊長の合同会議の席上、「八六部隊は三年間教育をするといっていたが、一体どんな 成果を挙げたのだ」と、八六部隊長山村大佐が一斉に吊し上げられた。関東憲兵隊の全予算の半額をつぎ込み、目下教育中です、ではとおらない。相手が納得し なかったのだ。山村大佐は八六
部隊の真値を間われ、涙をのんで帰ってきた。
 
これでは、何か一つ早急に成果を挙げなければ、部隊が解散させられてしまケ。そこでソ連諜者の最も多いと思われる牡丹江地区で、教育を兼ねて、何とか無線 諜者を挙げようということになった。
当時、部隊には松井技官の製作した自動的電探機があった。これは回わしておくと、大きな電波の場合、キャッチして自動的に記録して止まるという便利なもの であったが、借しむらくは容疑電波の識別ができない。そこで古屋
正雄伍長が、一週間で独特の手動式方向探知機を開発して三機製作し、演習で実験して成功を確認したうえ、指揮斑以下探査各斑十五名が出動した。
 
昭和十六年五月七日、新京を出発、牡丹江に到着すると、現地憲兵隊の指揮下に入って探査活動を開始した。なお、出動した雨宮班(雨宮初二郎准尉)は、妻烏 温軍曹以下六名であったが、七月十五日に一且新京へ引上げている。次期活動に備えるためである。
当峙、関特演の最中だったので、満州国内の軍事輪送は激しかった。すると当然無線諜者の行動も活発となる。そこでこの好機遁すべからずと、ぱかりに、牡丹 江地区を選んだのである。
牡丹江市内において容疑電波を探査した結果、まず約一力月の問に、金曜日の午前二時が発信時刻であることが判明したが、もう一歩のところで交信が停止し、 相手の故障か、探査斑の行動を感知されたかを検討したが、古屋軍曹は諜者側無線の故障と判断して時期を待った。約一力月後、再び怪電波は発信を再開した。 同じ符号で同じ周波数である。ここにおいて満を持していた探査班の活動によって、昭和十六年七月二十五目、ソ連無線諜者張文善(当峙三十七歳)以下七名が 検挙された。
張文善は牡丹江周辺の軍情、航空隊の演習状況、第三軍の配備状況などを調査通報していた。
なお、張文善検挙後、ソ連はモスクワの無電通信学校教官劉某を、延安経由で新京に密派し、優秀な米国製無線機を使って諜報活動をさせたが、交信回数が頻繁 なため、八六部隊の無線探査班に捕われた。また、終戦までに逮捕された諜者数と、指令局および諜者との関係は下図のとおりである。
また、張文善事件には後日談がある。このときに雨富班として出動した妻鳥軍曹は終戦後復員して郷里愛媛にあったが、昭和21年3月24日「調査要求あり。 四月一日までに出頭すべし」の電報を受けて出頭すると、牡丹江の張文善事件について聴取された。この件ばかりではないが、米軍は戦後も対ソ情報を収集して いたようである。さらに山村大佐や川口中尉らも、ソ連諜者の無線探査について米軍に聴かれている。