阿片試食官

阿片試食官/児島克弘

著者あとがきで「わたしは日本人ではあるが、日台いずれにもかたよらず、第三者の視点で双方の本音をぶつけようと考えていた」と述べている

 

阿片試食官より引用

大正13年の阿片会議は白熱化した。
会議の席上、英国は日本の満州における阿片密造、密売の手口をあばき攻撃する。対して賀来代表は、台湾阿片漸減策のせ成功例を系統だてて説明し、阿片追放に熱意を示す日本が、満州に阿片を密売させるはずもなく、事実に反する誹謗だと反論する。満州における阿片の実情を承知しない参加国(日英仏中印、オランダ、シャム、ポルトガル国際連盟に参加していないアメリカは不参加)は英国の主張より日本代表賀来の熱弁を首肯する。賀来は日本の台湾阿片策の成功例を、あたかも日本の全阿片政策であるかのように主張して満州の事実を隠蔽し英国の追及を巧みに交わしたので会った。

賀来は漸減策の具体的例として
1阿片隠者のみに吸食特許、他は禁止し治療を実施
2阿片煙膏の官営製造、管理、販売。
3教育による青少年に対する阿片害毒の徹底
右の三点を強調した。しかし台湾総督府は中毒者に対する除治療はほとんど実施しておらず、虚偽発言で会った。おおむね自然死による中毒者の減少を待っただけなのである。ともあれ阿片会議は、日本代表の主張がとおった形で阿片漸減策の線でまとまり、参加国は条約を締結する。

条約の骨格は、参加加盟国は、阿片の密造、密売を禁じ、阿片の使用は既往中毒者に限り認め、未成年者への売買を厳禁する。そして漸次、阿片の生産、製造、売買を減少させる。。同時に各国は阿片取扱量を明確にするために、輸入地から他への直接輸出を禁じ、阿片の通関、積み替えにも輸入国政府発行の証明書を義務付け密輸を防止することにした。条約の施行日は1926年7月と定めた。
賀来とすれば、台湾阿片漸減策の成功例解説を国際会議の大舞台で論ぜられたのは本望で会ったろう。自分が敬慕する児玉元総督、後藤元民生長官にたいするはなむけであると同時に、半生を捧げた台湾総督府に対する水からの鎮魂歌でもあった

以上は、今でも語られる神話作成の物語

13年海軍は陸戦隊を台湾とは指呼の間のに上陸させる.日本軍は占領地各地で軍票を使って食料を始めとする物資を調達するが、より効果的なのは大陸にあっては阿片煙膏である。日本唯一の阿片煙膏工場は台北にあり、台湾総督は予備海軍大将である。官制からして専売局は総督に直属している。
従来から阿片の流通で莫大な機密費を擁している陸軍の関東軍を海軍は羨望していた。海軍のその恩恵にあずかりたい。上海事変にしても名目は居留民保護であるが、裏には阿片市場の一端を得たい海軍側の願望がこめられていたと指摘する向きもある。だが、上海は海軍陸戦隊のみでは事変を解決できず、陸軍の救援によって危機を脱した。上海も海軍の自由にならず、阿片市場の橋頭堡を別途アモイに見出したともいえる。

以上、上海事変裏面史 これが、植民地での標準的観点
陸軍側から書かれたものが多いので海軍側からの視点は出色。

昭和18年専売局の酒席で。(軍政要員として徴用された若林阿片係の一時帰台の歓迎会で)
「おい、若林君、君はジャワで軍政要員として内をしている」
「タバコの製造、販売の指導です」「ウソをつけ、君は阿片一筋のはずだ。酒もタバコも門外漢のはずだ」
「弱っちゃうなあ、mぷ。極秘ですよ、極秘。実は阿片です。現地の施設で阿片を製造し、華僑にいかにして多くの阿片を吸わせるか?それが私の仕事でして」
「そうだろう。そんなことだろう。たいした軍政要員だ」
「それも国策だ」
憮然たる表情で相沢室長がたしなめる。なるほど、(台湾専売局も含めて)阿片の増産、増販は、戦争遂行上の秘められた国策でもあったのだ。


夏雄は、(書類を燃やし続ける焼却作業で)終戦時まで眼に触れなかった極秘書類やパンフレットを書類の山から拾い出し読み漁った。「南方阿片統一論」なるものがある。著者は夏雄の上司、専売局計画室長の相沢である。要旨は、台湾専売局の阿片工場の設備をフルに活用させ、南方占領地に阿片を供給すべしと献策していた。夏雄は占領地への阿片は軍の要請により一度は軍の下請け機関か別働隊に納入され、その後、占領地に戦略物資として密売、もしくは軍票代わりに使用したと想像していた。だが、このパンフレットを見る限り阿片密輸出入に相沢室長が主導的、積極的であったのは歴然としている。
「室長は自分の意思でこのパンフレットを書かれたのですか?」「バカな。総督府上層部からの要請でおれが書かされたのだ。本島人の眼にそのパンフレット をさらしてはならん。何をおいても、その「南方阿片統一論」を先に焼くんだ。下手をすると俺は戦犯に問われる。局長も総督府首脳も危ない」

 

以上、終戦直後の証拠隠滅から

 

     有隣堂」バックナンバーズ藤田昌司書評
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/386_5.html

湖島克弘氏の『阿片試食官』(徳間書店)は、日本統治下の台湾の実情を描いた注目すべき歴史小説だ。台湾の医事衛生の改善に尽力して台湾人の希望の星と仰がれた杜聰明博士に、作者の造形した虚構の人物をからませ、阿片追放の苦闘の歴史をたどる。

 炳煌のたどった人生が底辺社会だとすれば、杜聰明は日の当たる栄達のコースを順風満帆で進んだ。医学校-医学専門学校-日本内地留学-医専助教授を経て台北帝大医学部教授、勲一等勅任官に任ぜられ、台北の官立、私立、法人のほとんどの病院の院長を兼任.

(戦後、台湾専売局に炳煌は呼び出される)
「オレが誰かわかるか?」
炳煌の記憶に火花が散った。そして、驚愕した。
「あっ、洪渓山先輩」「なぜ、ここに」
渓山はアモイで中国革命党台湾支部党員として抗日運動に加わり、大戦末期にはアモイ支部ナンバー3の地位にあった。
「そのおかげで、今はお役人さまってわけだ」
「そこで相談だが、また専売局に戻ってこないか?」
「ただし、条件がある。国民党に入党することだ。日本人教官を殴って師範を中退したといえば、党は大歓迎するはずだ」
外省人の下で働くことに触れ)「ご無理ごもっともで絶対に反対するな。拝拝(パイパイ)を忘れるな、君にできるかな」
「おれはおおげさな話をしているのではない。腹がたって外省人を殴ろうものなら、退学、退職ぐらいではすまない。よくてブタ箱、下手をすればズドンであのよ行きだ。短気なおまえに耐えられるかな」

以上、実際には、本人のアイデンティティーに触れなければいけないのだ。この淡水公学校の先輩でアモイに渡った洪渓山。反日運動で国語学校時代の炳煌と相識であり、医学校を卒業して医師から、チフスで急死した台湾民衆党の蒋渭水
昭和6年の遺書は全文が掲載されている)
作者の次作を期待する所以は、この台湾民衆史にある。
朝鮮での「南部軍」「太白山脈」など、さらに「光州」での殺害と記憶の掘り起こしの民衆運動が、高まる権利意識と経済成長で支えられていく。台湾について知らなすぎるのだ。

 

アヘン政策の問題点。満州国亜片政策に関する陳述 
      古海忠之「侵略の証言」岩波書店
人類乃至民族の弱廃より、延ひては其の衰亡を齎す以外の何者にも非ざる亜片吸飲を許容、維持、または助長するは其の本質において犯罪である。然れども帝國主義的侵略においては、 亜片政策の採用は最も必要な常套手段にて、法律、制度等に依りて粉飾合理化せられ、被侵略者の衰亡を培ひて自己の目的を確保するとともに、有力な財政手段を挙ぐる副目的をさえ達し得るのである。
満州国においては1933年2月関東軍が亜片産地たる熱河省を侵攻すると同時に 、亜片政策は財政収入確保の緊急必要を理由とし早くも採用せられることになった。
*熱河侵攻の司令官は東条英機。当時よりこの侵攻はアヘン関連と言われた。
関東軍外郭会社坂田組を設立し、北京、天津に直送したのが、登戸研究所偽札作戦の上海「松機関』軍属、坂田誠盛。
                                 

    
ルフレッド・w・マッコイ「東南アジアのヘロイン政治 (邦訳書名「ヘロインー東南アジア麻薬の内幕」 ~ 山田豪一「オールド上海阿片事情」より

ルフレッド・w・マッコイ「東南アジアのヘロイン政治 (邦訳書名「ヘロインー東南アジア麻薬の内幕」の功績は、生産と流通の経路を明らかにしただけではなく、タイ、ラオスベトナム現地の聞き取りによって、阿片とヘロインの流通経路の掌握が即政治権力の獲得につながった戦後東南アジア政治史の展開を、現にベトナムと米国で進行中の事態と結びつけ、解明した点にあった。


マッコイによれば、五十年代初期、CIAがビルマ側に逃げ込んだ国民党軍の支援に乗りだし、ここで栽培された阿片がラバの背でタイのチェンマイに運ばれ、CIA提供のヘリや飛行機でバンコクに送られるのを黙認したのがことのはじまりだった。第一次インドシナ戦争でフランス情報部がラオス少数民族に栽培を強制し、サイゴンの警察軍に販売権を与え、反ベトミン勢力育成の資金にした経緯は、日中戦争中、日本軍が内蒙古で栽培させた阿片で占領地行政の経費を賄ったのに似ている。


が、フランス情報部と違ってCIAはタイやラオスで、そしてゴ・ジン・ジェム政権を作り介入したときも、その秘密活動資金を得るために麻薬取引に手を出したりはしないという。CIAが演じた役割は、副大統領のグエン・カオ・キがかれの空軍輸送機でラオスからサイゴンに運び込み、それが、かれの権力の源泉となり分け前をめぐって政権内に暗闘がたえず、さらに69年、香港から送り込まれた職人の手で、黄金の三角地帯でヘロイン製造がはじまり、これがベトナムの米軍兵士に売られ、七十年代のはじめ、在ベトナムGIの15~20%、2万五千~三万七千人がヘロイン常用者になったという軍医の報告を知りながら、CIAも南ベトナムのの米大使館も何の手も打とうとしなかったことだという。かれらは阻止すれば政府の崩壊につながることを知っていたからだ。
1967年、ボリビアに入ったチェ・ゲバラが農村からの武装闘争を呼びかけて死んだ。これに対抗し、反ゲリラのの工作員ラオスグリーンベレーが阿片運搬に便宜をはかったように、かれらも農民を味方につけるためコカ栽培をすすめ、コカインの運び出しを手伝い、やがてこれが巨大な流れになって米国に流入し、この流通を掌握したかれらのなかからパナマやハイチの軍事独裁者を生み、かれらは今やアメリカの厄介者になっている。

 

1979年、フランシス・コッポラが「地獄の黙示録」を作った。あれは、CIAの工作員がウエストポイントの最優等の卒業生、朝鮮戦争の英雄で、グリーンベレーの指揮官として来たベトナム軍の後方奥深く潜入した将校暗殺の命令を受け出発するところからはじまる。なぜかれが殺されねばならぬのか?ベトナム戦争の地獄めぐりをしメコン川をさかのぼり、めざす少数民族部落で工作員がみたのは、白っぽく肌のかわいた無表情の住民の群ーアメリカ人なら、これがヘロイン中毒者の症状とわかるーをかきわけ、マーロン・ブラント扮するカーク大佐をみつけ、カークが黙ったまま殺されたとき、その沈黙から米国民がやはりかれは殺されるべきだと断じたことがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

民謡・猥歌の民俗学  赤松 啓介 

民謡・猥歌の民俗学  赤松 啓介 明石書店 

<内容>
      第Ⅰ部 近世の民衆と抵抗の唄
     一 近世民謡源流考
     二 失われた青春への回想第
Ⅱ部 民謡・猥歌の民俗学民謡
第Ⅲ部 猥歌の風土記 [初出: 『民謡風土記』 1960 神戸新聞社のじぎ文庫]   
   
〇赤松氏の名前をつながりの中で知ったのは、1981-12「解放教育臨時増刊号」であった。田中武、上村充之、南曜子、森山沾一、野口良子、野本三吉、高瀬泰司、上野英信谷川健一宮本常一高取正男同志社大編「遍路」が掲載され、編集・解題は福地幸造であった。

 

昭和のはじめころ,赤松啓介がフィールドワークの場とした兵庫県の農村部での体験の一コマが本書に織り込まれている。むき出しの性への笑いを核にしながら,男と女のさまざまな局面に即した恋唄がふっくらとその外層をなして民俗の唄は形成された。民俗の唄にはもちろん仕事唄や,古い神事から変成したものの多いわらべ唄等が別の系列をなしているのだが,それらとても生命力の源泉を性のメタファーに負ってきたことには変わりない。若者宿,夜這い,歌合戦といった習俗が,そうした民俗の歌の基底を支えてきた。
 

〇追悼「赤松啓介氏の残したもの」より   ◆森栗茂一 


      赤松氏は社会主義運動として、自転車をこいで播洲の底辺の農村を訪れ、非常民・被差別民衆・スラム街にわけいり、人々の昔話や噂話・生活伝承を書き留めた。自らの労働や性体験のなかで、伝承に耳を傾けた。つまり、戦前の民俗学には、二つの学派があった。一つは、旅人としての聞き書きによる常民研究から、日本文化を探る柳田派である。もう一つは、徹底したフィールドワークに基づく非常民研究から、革命を志向する赤松派である。
  全国を旅した巨人・宮本常一は、赤松の意思を受け継いでいた。宮本は被差別の民俗文化である周防猿回しを復活し、離島振興法の基礎となった離島調査会を運営した。宮本こそ、赤松派である。初めての男女の交わりでの作法「柿の木問答」を究明したのも、赤松と宮本だけである。

 

歌をはじめよう
     

朝もハヨウから弁当箱さげて
工場(こうば)通いも楽じゃない
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。
仕事はきついし
残業は多いし、
これじゃ身体がもちゃしない。
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。
工場焼け~てぇ
本社も焼け~てぇ
ついでに社長も死ねばよい。
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。
社長死んでも、オイラだけは泣かない、
泣くはオヤマのカラスだけ。
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。
カラスだって、ただじゃ鳴かない
あげた団子の食いたさに。
あ、ギッチョンチョン。あ、ギッチョンチョン。

今から30年前に立川飛行機で歌われていた労働歌と聞いた。
うらおぼえであるのは、失礼。歌の3番目から、明るくテンポの速いリズムに切り替えて歌うのがポイントで、とも聞いた

 

この唄は、どのような席で歌われたものか?唄をうたうべき場合と反逆

歌をだしなされ、餅のような歌を
私がつけます 豆の粉を(印南)
歌を出しやんせ、出しゃったらつけよに
竹の根の節、揃わねど(加西)
うたえ、うたえと、せきたてられて
唄もでませぬ、汗が出る(伊勢)

 

今の若い人には想像もできないことだと思うが、昔の唄はただ聞いているだけのものではなかった。唄をうたう形式はいろいろあったが、誰でもうたわなければならなかったので、もし唄わぬものがあると気にいらぬことでもあるのかと嫌われている。
つまり近世までの唄は、本質として共同体的性格を持っていたので、唄が集団の管理に属しているかぎり、唄をうたうべき場合に唄をうたわぬのは、集団に対する反逆であり、違反であったから、そういう抵抗が許されぬのは当然であろう

 

うたはうたいたし、唄の数知らず
野でも山でもこれひとつ(印南)
うたいますけど、まだ若鶏で
声が届かぬ、隅々へ(多加)

 

歌い手さんの自己卑下から歌合戦、音頭取りへのひやかし、「いさかい唄」「あて唄」「かえし」「唄喧嘩」。

 

心ありゃこそ、この手を握る
承知するまで離しゃせぬ
承知しました離しておくれ
わたしゃあなたの妻になる(加西)


若い男と女のラブソングと思ったら大間違いで、女同士の唄喧嘩なのである。つまり一方は恋をあさる男になった気であるし、一方はほれた男に手を握られて嬉しくなった気でいるわけだ。


〇ラブソングというものは自由恋愛が保障されるような社会でないと成立しない。「夜這い」といい「豆盗人」といい、公明な恋愛を育てるような空気が日本の近世封建社会にはなかったのである。民謡に表れた多くのと情事の唄を、当時の人たちが自分で経験した恋愛や情事を唄ったものと思うかもしれないが、実はほとんどが借り物であった。

自由に恋愛することを許されなかった若い女性たちが、お互いに本当の恋愛はこんなものではなかろうかと想像しながら、作り上げた仮像なのである。経験ある民謡研究者でも、これを本物と思っているものがあるほどだが、それらの唄が極めて類型的で、殆ど類歌や替え歌であることをみれば、おかしいことに気づくはずであった。
色のまじらぬ唄がないほどであるのに、生命を焼きつくすような強烈な相愛の唄がないのは、真の恋愛が育つ社会でなかったからである。

 近世社会後期の爆発的な発生と流行の影。機織女工、丁稚・子守り女。この唄の二大集団的管理者と彼女たちの背景にある農村社会が女性共有を強制する男性の暴力とそれを社会・風俗政策に利用した封建的権力にさらされていたことも、また彼女たちの悲劇感を育てるのに不足はなく、唄の形成に大きな影響を与えている。


赤松が「戦前は盆踊りを12時以降は禁止したとか、猥褻な唄は唄わせなかった」「だが、これにウラがあった」と言えるだけ、現場に通いつめたヒトが、この 「集団と唄の作法」を書き込んでいるのだ。
糸のほつれをほどく作業も複雑になっていく。


以下は、そのヒント。

赤松「村落共同体ろ性的規範」より
若衆いりして、力も一人前であり、仕事も一人前にできる。そのため日雇いに出ても一人前の賃銭を支払われることになった。ムラの論理には、それなりの一貫性ある。それで、結婚してともかく生活できるのを保障したのである。
そうタテマエのように進まぬことはわかるが、基本的条件は揃えてあるのだから、後は本人の努力であり、それができないようでは一人前とはいえぬ。
「一人前」とは、いまのわたしたちが考えているような安易な達成目標でも、単なる言葉の遊びでもなかった。ムラが生存する上での根本的要件なのである。

 

 

ブラック・プロパガンダ

ブラック・プロパガンダ


 ◇情報公開されたアメリカ側資料を駆使し、第二次大戦下での日米の宣伝、諜報、謀略の真相を解明する
岩波書店  山本 武利     早稲田教員

ブラックホワイトプロガンダ(米大戦期OWI戦時情報局)&
ブラックプロパガンダ(米大戦期OSS戦略諜報局)
    

OSS諜報機関であるため、諜報部門と戦略工作部門とに大別され、、、組織的には、戦略工作部門→MOモラル工作隊→プロパガンダ部門。

<MOモラル工作隊の目的>

敵国の内部で内紛、分裂、混乱を扇動し、拡大させる
敵の協力者の信用を落とし、敵支配地区の住民、官民の抵抗意識を喚起し、抵抗を高揚させ、反乱を起こさせる
敵支配地区での上記目的の手助け
敵の武装勢力の内部での士気の低下と反乱の奨励
他のOSS部門(特殊工作隊、秘密諜報部の手助け)
具体的な手段
秘密自由放送局
実際には、連合国が行っているが、敵国のレジスタンス集団が行っているように仮装したもの
偽造文書
偽造ビラ
連合国の公的な関与とは見分けがつかなようにする

<新国民放送局>

昭和19年6月サイパンが陥落すると,米軍は翌年4月から日本全土に向けて,日本国内の反軍勢力を装った謀略放送を開始した.日系人が担ったこの放送「新国民放送局」は終戦の2日前まで計110日間に及んだ.アメリカの情報公開法により扉が開かれた一次資料を駆使して,思想戦・宣伝戦といわれる第2次世界大戦の影の部分に今初めて光が当てられる.

①日本の敗戦は不可避である
②軍部を打倒するのは、愛国的な日本人の努め
 そして、十分な尽力、資源を残し、速やかに降伏し
 新しい民主日本の形成を
共産主義の主張、ロシアを刺激する内容はつくらない


放送内容例としては
①延安レポート、野坂参三日本兵捕虜。、手紙、日記など実情の放送。
②ドイツ降伏、沖縄戦etc。
従軍慰安婦の登場
前線への輸送船で
慰安所で働くということ」
「私は、看護の経験や知識がないのに看護婦になりました」
「つい昨日、兵士や船員がわたしたちをニヤニヤ見てながら、売春婦だと話していましたが、、、どうか、本当のことを教えてください」
そこで、率直、かつ詳細に慰安婦について志っていることを洗いざらい話した、、、
④前線遺棄兵士の手記、妻から夫への手紙

また、中国戦線では、中国語のブラック・ラジオが
コロンビアプロジェクト
チャーリ作戦(広東向け広東語)
ウィリアム作戦(武漢向け)
ハーミット作戦(南京向け)

企画されたものとしては、
鹿地亘(日本人民反戦同盟、重慶在)との接触による日本語放送
しかし、敗戦で実現せず。以下、かれへの接触
1941イギリス在華大使
1943OSSファース准将
1944アメリ国務省書記

また、、野坂参三を利用した、延安からの日本語放送も企画。
アップルプロジェクト」も企画された。1945・6OSS将校「延安」へ。


大日本帝国のブラック・プロパガンダとしては、占領前後のオランダ領ジャワ(インドネシア)でのラジオ放送が有名。中野学校関連で読んだ記憶がある。

今日は夕方から町田エイサー

某月某日  ano日 & kono日

 

今日は夕方から町田エイサー
に 出かけました。場所は、横浜線町田駅の前の東急にはさまれた道路です。

町田のエイサー・チームの熱演のあとが、今年の招待チーム沖縄市 諸見里青年会
の登場です。

ステージに「諸見里青年会」の旗が翻り 、キジムナーというかヘコキのサンラーというか、みのがさ、フェイスペインティング、ワラ帯という奇妙な二人がカメをかついで出てきました。

私は、このカメに目を付けていましたね。

 


 ステージに泡盛のカメを振り動かし担う二人
大きな左右への足の振り回しにご注目
カメは陰に入って見えない

 この写真では、カメが大きく揺れすぎて 理解しずらくなってしまった。二つの頭の間の藤蔓で編んだ籠に、カメが のっている。場を清めるのか、メインステージでの最後の公演では、カメの泡盛、ダイヤアイスが揺れてと飛び散り、 美しく輝いた。

絵本(儀間比呂志『七月エイサー』(福音館書店、昭53))で知っているキジムナーとヘコキのサンラーの「お酒ください!たくさんください」のカメです。
ステージが進み、最後にお客さんもステージにあげて、カチャーシです。
沖縄美少女たちの踊りにあわせて、慣れなくても手足を振り振りしていると、ステージの隅に置かれたカメに、諸見里のおじさんが近寄って、一杯引っ掛けているではありませんか。

「本当に、あのカメには泡盛が入っているんだ!」

あとは、ボディランゲージ。口に輪にした指先を持っていき、オジサンの肩をたたいて、片手をあげて頼みます、と頭を下げる!共通ポーズです。 小さなポリコップで頂きました
ダイヤアイスが3個ほど、ロックの泡盛でした。 度の強いはずのなのに、素直にのどをこえていきました。 ああ、うまかった。

お祭りのお酒、神様のお酒、踊りのお酒。

時間にして十分ほど、カチャーシを踊って、帰りは自転車。
この一ヶ月の疲れが取れるおしいい泡盛です。肩こりにも効いています
まだ、お腹が温かい。
明日もあるとのこと。行きます。
泡盛を明日も頂くのは、失礼でしょうが。
見ている限り、カメの泡盛を頂いているヤマトンチューはいませんでした。
それでは。


ぎんの うすに おうごんの じくたてて
いねを すれすれ あわを よれよれ
ことしは ほうねん まんさく いろくゆ
エイサー エイサー スリサーサー
ぱらりん ぱらりん ぱんぱらりん
しまの エイサーは よの ふけることを しらない
「おう おう おう!」
たっぷり めのほようをした ごせんぞさまは
ハネルになり アケズになり ぐそうへ かえっていくよ
「さようなら、、、また らいねんも いらっしゃいねえ」
アー トウト ウー トウト
儀間比呂志『七月エイサー』(福音館書店、昭53)
この絵本の読み聞かせが大好きだった娘も、この時、25歳。




 




 

 

 

電鉄日記 アイコン      脇田 繁明  グリーンアロー出版社

電鉄日記 

    日記体で記された終戦直後の私鉄職場 (大東急新宿支社)

1946年4月30日
「場内注意!」
とここの所は声を出すべきなんだが、オレは黙って信号機の下を走り抜けた。進路現示「2」もチラッとみてただけだった。だが前路に次々とわだかまる分岐の 開き具合は真剣に読んだ。全部正常。よし。直ぐに騒音と振動が起きて足の下の車輪は先ず渡り線の転轍器を踏み越えそして踏切。続いて一番線との分岐を踏ん で構内踏切を渡ると車体の先端はホームに差し掛かる。
オレはホームの三分の一程のところで、ゆっくり制動弁のマンズハンドルを引いた。制動管の排気音が起こり、間もなくブレーキが利きはじめる。列車の速度は 目に見えて遅くなった。
ホームの前端には海老八が立っている。青い菜っ葉服を着てフン反りかえっている。海老原八助。構内運転手。あのふとりかえった体つきは、この時世に食い物 に困ってない証拠だ。
オレは一回、続いてもう一回、そして最後は海老八の立っているちょっと手前でマンズハンドルをレリーズにして、眠るように列車を止めた。これで海老八は一 歩も余計に歩かないで運転台の窓のところにやってこられる。
「ご苦労さん」
そう言って海老八は運転台の中を覗き込んだ。オレは黙って頭を下げた。
「具合どう?」「調子いいです」マスターコントローラからレバーを抜き取り、立ち上がる。ホームでは拡声器が「毎度ご面倒様でございます。この電車は当駅 止まりでございます。どなた様もお忘れ物なきよう、お乗り換え願います」

    終戦直後の「整備不良電車」を、この運転士は操っているの だ。

さらに、悪化する一方の食糧事情。


▼すきっ腹▼
(オレは)限界をこしたスキッ腹で、成城学園ホームの発車待ちをしながら「とても立っている元気はなく折れるようにホームにう ずくまり」車掌に「時間ですよ」と声を掛けられオレは驚く。なる程、出発信号がもう青になっている。出かけなければいけない。でも出来ることなら、オレはしゃがんだままでいたかった。(6月17日)


▼シケモク拾い▼
稲田の折り返しで上りの発車待ちにはいるとオレはホームの下に降り、電車の床下を見て回った。・・人が見ているといかにも仕事熱心な乗務員のように見え る。
だがオレの目的は他にある。こんな事をやっているうちに枕木の上、道床の石のなかに必ずタバコの吸殻が見つかる・・・
オレはこうしたモク拾いはしたくなかった。だがタバコは吸いたかった。なんとしても吸いたかった・・・さも、床下点検をしているフリをして人目をゴマカし てやっている。情けない(6月19日)

 

▼トコロテン▼ この夜の夕食はオフクロから「おまえ、今日はなにもないんだよ。仕様がないからトコロテンを買っといたんだけれど。我慢してくれ」といわれ、勿論ニセモノ の正油をかけて、「細い糸のようなトコロテンは重なり合って半透明の塊に盛り上がっている。オレはその一本、一本をさも大事そうに飲み込んだ。たとえ少し でも長くかかって食う為に。情けない。」(4月30日)

 

▼ラーメン▼ 「フフ息をはずませ、舌でこねくっていると、びっくりした鼻から鼻汁がトロトロ流れ出す。テイサイも何もなかった。
このソバは本物のシナそばだった。具は何も入っていなかったが、ソバだけは本物だった。
「こりゃ本モノですね」
「そうですよ、いまどきザラには無いシロモですよ」
「やっぱり違うなあ」
勘定はSが払った。二杯で15円だった。オレにはとても手の出ない値段だ。
(12月14日:藤沢駅周辺にて)

 

 

当時の仕事感覚を伝える貴重な証言

    ▼居眠り対策の立ち運転▼
「眠っちゃった、眠っちゃった、オレは口のなか叫び、猛烈にしまった!と思った。
またオレは改めてオゾ毛をふるった・・・居眠りなんて飛んでもない。オレは腰掛けからスッと立ち上がった。今日は仕業が終わるまでもう絶対座るまい。(8 月23日)

▼片瀬線の女性運転手▼
「帽子はかぶらず、白いブラウスの袖に「運転士}の腕章をつけ、紺の制服ズボンをはき、手には歯止めをぶら下げている。あんな身なりを脱がせ、ちょっとし た洋服を着せたら一流会社の女事務員に見えるだろう」
(8月16日)

▼2・1スト▼
(詰所の貼紙に)2・1ストの防衛部署が書いてある。
貼紙の書き出しに「戦闘組織」とある。闘争ではなく戦闘だ。組織は心得を意味する。
1月31日終車後、在経堂電車は全部車庫線奥深く入れよ。
パンタグラフを下ろし、針金で縛れ。
メインとブスのヒューズを外せ。
電車区員は工場員と協同して車庫線周辺にバリケードを築き、ピケラインを張れ。
警官隊、非組合員、暴力団来襲時は実力をもって排除せよ。
と書いてある。
(1月27日)


オレも須崎も味気ない晩飯をササクサと食い終わると、外套を羽織って制帽を被り、渡された「防衛隊」の白い腕章を左腕にはめ、追い出されるばかりに詰所を出た
(1月31日)

▼出来仕舞▼
午後3時ごろには工場棟、車庫線にも菜っ葉服は全く消えてしまった。
誰もいなくなるとオレはスーッとした。
3時半、正規の終業までまだ1時間半もある。
「今日、工場、もう止めけえ」
「ああ、(土曜日なんで)出来仕舞だって」
「出来仕舞?何もできちゃいないじゃないか。なにが出来仕舞だ」
(3月22日)

    

 

鉄道ファンにとって貴重な証言

    ▼窓なし電車・雨漏り電車▼
「雨は急でその上凄かった。丸で滝壷の中に電車が飛び込んだみたいだ。正面ガラスは水族館の覗き窓の陽になった・・オレは慌てて側窓のガラス戸を引き上げ ようとしたが、そこにはガラス戸がなかった。覚悟を決めて全身濡れ鼠になる。
客室の中ではもっとひどい騒ぎが巻き起こった。閉めようとする窓のガラス戸は半分以上もなく、鎧戸さえ全部はない。雨は客室を荒らしまわり、みんな総立ち になって怒鳴っている。めちゃくちゃな話だ。


戦争の中ごろから電車は出入り口以外のところからも人や物が通り抜けるようになった。窓ガラスはどんどん割れ、窓枠は片端から壊れた。電鉄はあきらめて何 もふさがなかった。そこで雨が降れば雨水は自由に電車のなかに降り込んだ。
雨は天井からも垂れてきた。屋根のキャンパスがコワ張り、ヒビわれ、キャンパス下のパテがかさぶたのように干からびると、雨は そこに侵みこみ、天井板を通して室内に漏れる。張り替えるキャンパスはガラス同様品不足になりなおすことはできなかった。そこで雨の日は傘をさしたまま電 車に乗ることが時に必要となった。
(9月14日)


▼暗闇電車▼
三両編成の先頭車と後尾車は一応満足に灯りが点いた。ところが真中の車はどうしても点かない。オレは弱って暫く考え込んだが、もう何かする時間はない。 ちょっと面白くない気分のまま稲田を出発した。・・・
こんな暗ヤミ電車が絶えず2,3両ずつ後をたたない。
室内灯の点かないのも困るが、前照灯が点かないのはもっと困る。線路脇から飛び出してくる人、荷車、自動車には電車のきたことがわからない。暗闇の中から ガッと電車がのし掛かって来たってもう引き返す暇はない。仕方なく、警笛を立て続けに鳴らしながら走るほかはない。
警笛も鳴らなかったらどうする。
オレは実際夜、前照灯がつかず、警笛も鳴らない車を運転したことがあった。
(9月28日)


東武東上線芋の買出し▼
芋の(ヤミ)買出しの記録であるが、東武鉄道の評価がおもしろい。省線なみの施設の規模の大きさ、車 両のいたみ方が小田急より少なくいことなど高く評価している。
(10月21日)


▼小田原往復「準急」の実況▼
「運転士見習」海老原研吉君指導のこと。16ページに及ぶ大記録である。特に渋沢、新松田間。下りのブレーキ、上りの力行のハンドルさばきの詳説は傑作。 運転指導書が脇にあるか、身体に叩き込まれていなければ、書けるものではない。
(12月1日)


▼RT運行▼


RT運行は進駐軍専用車を走らせる。200型一両が専用車に当てられ、何から何まで戦前同様に整備されている。車体の窓下に に白帯が塗られ、どんなに車両が足りなくても一般の運行には使えない。まるでお召電車だ。
1日に2回定時運転するが、このほか臨時に進駐軍の鉄道輸送部から命令が出て、異なる時間に異なる区間を走らされることがある。
第34仕業。16:43経堂(回送)新宿。新宿(途中、無停車)相武台前17:49。
相武台(回送:途中、無停車)経堂18:28。
20:25経堂(回送)新宿。新宿(途中、無停車)相武台前。
相武台(回送:途中、無停車)経堂22:13。
(2月16日)

▼本式の車両塗装▼
今度の306定検でオレは本式の車両塗装というものを初めて見た
・・(アク洗い)(トノコ)(砥石)(トノコ)(砥石)(ワニス塗り)(扱き)(ワニス塗り)(扱き)(ワニス塗り)(扱き)・・そういうことで初めて家具並みのワニス仕上げになるのだそうだ。確かに顔が映る位だった。本当の新車だと鮮やかな黄橙色に仕上がるが、塗りなおしではかなり茶褐色になる。これは仕方がないらしい。
剛体の外板塗装も車内内部に劣らず大変だった。

電修工業の塗装屋のボスは清川といった。木原と同様、省の大井工場にいた
「この中はラッカーのカシュー・エナメルのと言ってやすけど、昔あゴウギと漆だったわさ。塗っちゃ砥ぎ、塗っちゃ砥ぎ、十遍も繰り返すなあテエゲエな事じゃねえス。それに天気の悪い日は仕上がりがどうしてもイカねぇ」と言った
(12月15日)

 戦後史にとって貴重な証言

    ▼欠陥電車63型▼
三鷹事件』(片島紀男著・NHK出版) は、戦時型63型の問題を指摘している。

脇田氏も、結びで「乗客はひと思いに死んだのではない。逃げ惑い喚き叫びながら生きたままバーベキューにされたのだ。私は47年に小田急でデッドアース事 件のあったことを思いだした。あの時、運転士の斉田君は真っ先に乗客を逃がさなければと思ったそうだ。そういう着想が国鉄乗務員の頭に閃けばああ迄悲惨な 事にはならなかったろう。車体外のドア用コックが見つけにくかったというが、デッドアース中でも戸閉装置は動くのだ。車掌スイッチの一操作全ドアは一斉に 開き、死者の大多数は非難できたろう。しかし大本は63型が欠陥電車であったことにある。」と51年桜木町事件に触れ、
さらに「三鷹事件では何者かが暴走を工作したというが、63型が自然に走りだすのはあり得るのだ。私は現に経堂で63型が自然に動き出したのを目撃してい る。今にして思えば、経堂の暴走事故はその後の63型事件の前兆であった」としている。

△当時の電車の事情のひどさの実感から「三鷹事件」での63型の暴走の可能性がある、との証言である。
片島氏の著作は当時の国鉄関係者の証言に依存しているが、国鉄、民鉄、労使を含めて鉄道会社は官 僚的な公式発言で(現在もそうであるかもしれないが)、なかなか具体的に信じきれない部分がある。
もちろん、戦後三大謀略事件とされ、死刑判決の出た刑事事件であるからガードの固さは当然でもあるのだが・・・
しかし、脇田氏のように中途で退職した民間の証言があると、暴走事故説を 信じたくなってしまうのである。

(具体的に「電鉄日記」で触れている関連を示す)
▼63型経堂区入線▼
終電後、省線新宿から入線。導入決定、入線までのいきさつ。鉄道省と東急新宿支社(小田急)。経堂区内での63型一般乗務員研修。
(1月18日)

▼63型実地検分▼
オレは客室に入っていった。20メートル車の客室はさすがに広い。
・・・天井は傑作だ・・天井板などぜいたくなモノは張っていない
・・だが床下の配線はお粗末至極だった。金具で床下に吊り下げられた幅20センチ位の木の棚が全長方向や横方向に張り巡らされている。棚の上に1500ボ ルトの主回路用50スクエア線、制御や補助の回路用低圧線、それらがみんなムキ出しで並べられ、所々をテープで縛ってオッコチナイようにしてある。オレは その大胆さに舌を巻いた。そのうちどんな事が起きるか分からないと思った。

・電修工場(株)木原氏「どうだい、この車」「ひどいもんでしょう。戦時型。私がまだ省に勤めていた時分、島原さんという技師が原型を設計したんだけれど も、何しろ材料をなるたけ使わない方針だからね、ずいぶん苦労しられたそうですよ。」
「省じゃ新型を作るときは大抵大井工場で試作してみて、ソイツを徹底的に試験して、それから車両会社と契約するんだ。私は小僧のときから大井工場で、63 型の時は車体検査掛だったから試作の最中から試運転まで、一通り立ち会いましたよ」
「まあなんだね。そんなこと、いっちゃあ身も蓋もないが、この車、1年ともたないね」
「同じ20メートル車のモハ41、モハ60が46トン。これは大体自重42トン・・ねえ、柱という柱、帯、台枠の梁、、2ミリから3ミリ薄いんだ・・
外板も同じ。すじかいなんどもひとつおきときている・・
1年間平均40キロのスピードで走ってご覧なさい。どlこもかしこもガタガタさあね」
*木原氏は電修工場(株)以前は、大井工場勤務の検査掛であったので、詳しかった。

 

▼クハ200型梅丘駅(車両火災)デッドアース事故▼
梅ヶ丘を発車して殆ど直ぐ、斎田は電車の屋根の上にジャージャーいう異音を聞いた。真っ昼間だというのに線路傍の家並みや木立が明滅する閃光を写しているのを見た。今度は屋根の上から火の粉が振り出した。
デッドアースだ!斎田はそう直感したそうだ。急いでエマージェンシーをかけ・・・・頭は「お客を逃がさなけりゃいかん。だが慌てさせてはいかん」で一杯だったという。
斎田は電車の外側を走り、ドアというドアを片っ端から開けてまわった。なんだろうと飛び降りてきた車掌の金町と力をあわせ乗客を社外に誘導した

パンタを下ろさなければ、と斎田は思った・・・・まして火を噴き屋根が燃えている中では怖かった。
斎田がパンタグラフを押し下げたとき、架線は溶断して一方の切れ端がパンタグラフの枠の中に巻き込まれてしまった。折角パンタグラフを下ろしたのに電気は咥えこまれた架線を通じてどんどん流れた。火の手は室内の天井板に燃え移った。
・・・・線路傍の人の群れに「水をください!水をください!」と連呼した。線路傍の家々の人々がバケツに水を汲んで馳せつけた。戦争中そっくりのバケツリレーが始まった。屋根の上では斎田が燃えあがる火に水をかけ、車掌の金町や2,3人はモハの車内に入って下から天井に水を投げつけた・・・
(2月19日)


▼デッドアース事故の原因▼
事故を起こした207号車は、屋根と天井の一部が燃え約70センチ四方の穴が開き、天井から空が見えているという。
(パンタ)の台座と支持台の間には碍子がかってあって1500ボルトを絶縁している。ところが立ち上がり線の被覆が傷んで中身が支持台に触れ、1500ボルトがモロにアースに繋がったからデッドアースになった訳だ。資材不足の現在、電車内の配線は相当老朽しているから、いつまたデッドアース事故が起こるか判らない。ただオレが運転するときだけは絶対起こらないでくれ。
(2月22日)

▼モハ201号「配線不良故障」▼
これはスイッチ・グループの故障じゃない。マスター・コントローラでもない。配線だ。配線不良だ。
(コンジットから、線を)引きずり出した。何の事はない。灰で包んだ銅縒り線の束だった。オレと市村はそっと扱いながらこれを電車の傍らに長々と置いた。
オレは火葬した蛇のような電線の残骸を眺めてゾットした。電車区時代、このモハ201は何度も運転した。
それにしても一体、いつどんな調子で燃えたんだろう。恐らく一度に燃えたんではなかろう。どこか1箇所が燃え、スパークのたびにジリジリと燃え広がったに 違いない。そして被覆の燃え殻が絶縁のハタラキを失った時、ハッキリと故障を訴えたのだろう。
そういえば、今までも訳のわからない制御不良事故が随分あった。なんとなく修理を繰り返し、なんとなく故障が再発した。ああいう車はみんあこうなっている のかも知れない。恐ろしいことだ。
(6月18日)

 

▼63型暴走事故▼
どういう訳か一番線(経堂駅下り)に停車中の63型が突然、スルスルスルと新宿の方へ走り出した。乗務員は泡を食って乗務員室に飛び込んだ。恐らくエマ ジェンシーを掛け、無人暴走を始めた63型を止めようと焦ったことだろう。しかし63型は止まらなかった。暴走電車は豪徳寺の上り坂へと見る見る遠ざかっ ていく。
その時だ。63型の乗務員室の扉口に乗務員が姿を現した・・・這いつく張り、足掻くようにしてパンタグラフにたどり着き、渾身の力でパンタ枠を押し下げ た。
電源を絶たれた63型はやっと止まった。


(8月14日)
緊急の検討会が行われた。
現場テストではわからぬので、日本車両蕨工場に回送して徹底調査することになった。

オレは考える。
事故のとき、運転士はマスコンのキーを抜き、制御スイッチもオフにした。この状態で電車が動くはずは絶対無い。だのに、電車は勝手に走り出した。なぜ か」
「事故のとき、電車は上り方向に走り出した。これは2位マスコンの制御線(前進走行)に電気が流れたに違いない。オフ状態になっているのにどこからどうし て電気が流れ込んだのか。これが先ず問題だ」
「次に電車は走り出し、どんどん加速していった。これは(別の)制御線(シリーズ走行)にも電気が流れ出した証拠だ。63型では、制 御線(シリーズ走行)に電流があればフルシリーズまでノッチが進む。あるいは(別の)制御線(パラレル走行)まで電流が流 れていたかもしれない」
「結果的に、制御線(前進走行)(シリーズ走行)(パ ラレル走行)に傍らから漏電があったことは紛れも無い事実だ。あの時、電車は止まっていた。制御回路はオフ状態にあった。だが、パンタは上がっており、 MGの高圧回路、低圧回路、コンプレッサーは生きていた・・

配線の一部は床下の配線棚で制御配線と雑居している。コシタンタンと漏電も機を覗っている電気には漏電のチャンスはいくらでもあった。
そこで絶縁不良が問題となる・・・半オフ・・・」
「それにしても、63型は一体どういう電車なのだ・・要するにモハ63型は欠陥電車なのだ。神経系統が異常なのだ。」
(8月15日)


日本車両より報告があったそうだ。
「精密検査の結果、異常は発見されなかった」
「しかし、これでOKとはいえないので、配線総引きなおしをしたい。床下の配線棚は廃止し、系統別電線配管方式にする。改装所要工期、概ね1ヶ月」
(8月25日)
一昨日の23日、801、851の編成が帰ってきた。
床下の配線棚は綺麗に取っ払られて、主回路、高圧補助回路、低圧補助回路、制御回路ごとに電線管を別にして張り巡らしてある。始めて電車らしい姿になり変わった。
・・・始めからこうして置けば問題がなかっただろう。戦時中は資材難でできなかったのだろう。63型はいわば可哀想な戦争の申し子だったのだ。

戦争広告代理店

 


    情報操作とボスニア紛争  講談社
      スパイ小説を超える傑作ノンフィクション

「病院に入ってきたイラク兵は,保育器から赤ちゃんを1人づ つ取り出し、床に投げつけました。冷たい床の上で赤ちゃんは息をひきとっていったのです」米議会公聴会,奇跡的にクウェートより脱出しアメリカに奇跡的に 逃れてきた15歳の少女の証言。
「だがナイラの証言は,仕組まれた情報操作だった」
この議会証言にブッシュ(父)大統領は「心の底から嫌悪感を感じる。こうした行為を行うものは相応の報いを受けることをはっきり知らせてやらなければなら ない」と語った。しかし、ナイラはずっとアメリカにおり、クウェートには行っていなかった。それどころか、彼女はクウェート在米大使の娘だった。
このことは、湾岸戦争終結後、ニューヨークタイムズ紙によって発覚し、ABCの看板番組[20/20][60minutes]で特集され、クウェート政府 とその広告代理店「ヒルノートン社」の醜いスキャンダルはダーティーなイメージを強烈に残した。


      ルーダーフィン社ワシントン支社ジム・ハーフ国際政治局長
同社における国際紛争のエキスパート。
演出された正義。誘導される国際世論。
ボスニア紛争の勝敗を決したのはアメリカPR企業の陰の仕掛け人たちだった。

紛争当事者の片方と契約し、顧客の敵セルビア人は血も涙もない連中で、モスレム人は虐げられた善意の市民たちというイメージを世界に流布することに成功す る。
その上で、自分たちのビジネスは「モラルを最も重視しています」といい続ける

泣かない赤ちゃんはミルクをもらえない
     

1992年4月14日ベーカー長官はハシライジッチ・ボスニア・ヘルツウェゴビ ナ外相に「西側のメディアを使って欧米の世論を味方につけることが重要だ」と強調した。
さらにタトワイラー報道官は具体的なアドバイスとして「ボスニア・ヘルツウェゴビナにCNNのクルーは入っているのです か?」と尋ねた。
アメリカには世界中から問題をかかえた外相がやってきて助けてくれ,助けてくれと懇願する。しかし、国民のサポートなしに彼等のたのみを聞いてやること はできないのです。
国民が支持していないのにそういう国の救援に動くことは”政治的な自殺行為”といってもよい行為です。政府の外交行為は議会によって監視されていますから ね。議会は国民の世論が賛成しない政策には予算をつけません。そして,アメリカ国民に声を届かせるには、何よりもメディアを通して訴えることなのです」
                  戦争広告代理店


ルーダーフィン社のCEOデビッドフィンはユダヤ人であることを誇りにしてきたが、そのために、このボ スニア・ヘルツウェゴビナ外相の仕事を紹介されたときに問題となったのは、前年のクロアチア共和国からの仕事の依頼を含めて、クロアチアナチス協力者の 関係、ボスニアでのモスレム人とユダヤ人の関係などの問われた。クロアチアを「平和国家」と宣伝できるのなら、どのような国家でも樹立できる.
(まあ、ね!)
まあ、安直に言えば、ここで「ユーゴスラビア解体業」に乗り出したのだ。


1992年春ルーダーフィン社の第一次段階戦略「アメリカと各国指導者の脳裏にボスニアの情報量を劇的に拡大し、「民族浄化」衝撃と注目を集める」メッセージのマーケティング

1992年9月22日国連総会でのユーゴ追放決議議決。


ユーゴ側は、イゼトベゴビッチボスニア大統領に絞って攻撃をかけた。
「大統領はイスラム原理主義者である」
彼はチトー共産党政権下で政治犯として投獄され「イスラムによる統治が真の民主主義者だ」と書き、イスラム国家設立の必要性を説いていた。
「どんな人間でもその評判を落とすことは簡単だ。根拠は別にして、悪い評判を繰り返す。テレビの視聴者や新聞の読者は簡単に信じてしまう」

戦争PR会社の テクニックvs戦争PR会社のテクニック。
ボスニア側は、「人種のるつぼ」「多民族国家アメリカ人にとって快適な”多様性の美学”、民族浄化でなく民族共存を訴えた。

(いずれにしても、民族主義者だからヨーロッパ最強のサッカーチームのユーゴを解体したのだが、、)

 


ハーフが「民族浄化」を広げるためにねらいをつけたターゲットが大新聞の「論説委員会」だった。 論説委員がニュースの主役を呼び、直接話しを聞くという会合だ。
「論説会議に狙いをつけるというのはワシントンの住人には当たり前の初級テクニックにすぎません
そこで、出席するとどのようなことが起きるのか(外相に)詳細にインプットしました」


「私たちがクロアチア政府の仕事をしたとき、一度、ホロコーストという言葉を使ったんです。そうしたら、アメリカのユダヤ人社会はこの言葉が使われたことに不快感をあらわにしました」そこで、ホロコーストナチスという言葉は注意深く使われなかった。「ホロコーストとは比べられない。そういう比較は賢明な人間のやることではない」

第2次世界大戦の時、ナチスクロアチア純血政策をとり多民族国家ユーゴのゲシュタポとしようとした。ナチスの傀儡であった当時のクロアチア政権は異民族である「セルビア人狩り」を行い190万人のセルビア人のうち30万人が殺された。すさまじい虐殺であった。バルカンの呪われた言葉が歴史の封印から復活したのだった。 

文献リストの後景をさぐる

 

 あっは、あっは、あっ は、あっは、あっは、あっは、あっは、あっは、あっ は、あっは、あっは、あっは。
おひさしぶりです。
先日、高校時代のお友達(異性)に会ってしまった。
××年前と同じ顔だった!声も同じだった。さて、こちらは、どのように映っただろうか?

 

コロナ禍での新宿駅南口。

もう忘れてしまった光景だ。